サクラノ詩 円環の現在 下

5 リヴァイヴァル・アフター
5.1
5.11 圭
5.12 大地
5.2
5.21 唯美主義
5.22 心と自然
5.23 弱い神
5.24 強い神
5.3
5.31 稟
5.32 因果交流
5.33 櫻の森の上を舞う
5.4
5.41 意味と意義の再考
5.42 痛みはひとつ
5.43 櫻の森の下を歩む
6 伝えたいこと、たったひとつ
6.1
6.2
6.3
7

参考リンク・読書案内

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サクラノ詩 円環の現在 上

1 梯子の上
2 その先の風景
3 語りえぬものを語る
4 エティック・リヴァイヴァル
4.1
4.11 意味と意義
4.2
4.21 意味を疑う
4.22 世界の限界
4.23 世界の内外
4.3
4.31 生の意義
4.32 祈り
4.33 音と言葉
4.4
4.41 永遠の実在
4.42 必然の奇蹟
4.43 神の愛
4.44 時間

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サクラノ詩 生きる遺志を継ぐために

「迷走だって、前に進むための糧になる事だってあるんだよ」
「なんだ、そりゃ?」
「いやさ、前に進む力が、大きく後退させる事だってあるって事だよ」
 そう言うと圭は一枚のアルバム*1を俺に渡す。
「なんだこれ?」
「オススメの曲。サンフラワーって曲が格好いいぞ」
「向日葵か……。まぁ、あまりうるさい曲は好きではないが、一応借りておくよ」
「ああ、是非聴いてくれよ。俺が大好きな曲だ。『モッド・ファーザー』だぜ」
――V

01. Sunflower
02. Can You Heal Us (Holy Man)
03. Wild Wood
04. Instrumental (Pt 1)
05. All The Pictures On The Wall
06. Has My Fire Really Gone Out?
07. Country
08. Instrumental two
09. 5th Season
10. The Weaver
11. Instrumental (Pt 2)
12. Foot Of The Mountain
13. Shadow Of The Sun
14. Holy Man (Reprise)
15. Moon On Your Pyjamas
16. Hung Up

*1:1993年にリリースされたポール・ウェラーの2ndアルバム『Wild Wood』

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サクラノ詩 嘘評論とその周辺 -Ecole de Davis-

夏目圭『向日葵』に寄せて

 今の時代に新しい芸術は可能なのだろうか。可能ではあるが、しかしそれは非常に稀有な例である。「現代」というのは短命である。消費されるように芸術が生まれては消えてゆく。ほとんどの経済主体は長期的なスパンで価値判断をしない。情報が氾濫している時代の中で「見られる」芸術というのは高尚であるものよりも、俗的な需要を満たすものである。金になる作品に絶対性はないが、流行を追い、技術を研鑚していけば運よく当たる作家もいる。そして、現代において「作家」と呼ばれている者のほとんどが、消費文化のモードの上に成り立っているのは疑う余地がないだろう。現代において文化と呼ばれているものは一過性の中毒のように市場に出回りマス的に正しさを主張する。伝統や権威や高尚なるものは金にならなくなっていく。畢竟それはシェアの問題となる。ならば、誰にも見られずに秘蔵されている芸術作品よりも、多くの人々に見られる通俗的な作品が正しいのか。その通りである。だからキュレーターは、真に芸術的価値のある作品とそれを描ける芸術家をいかにして世界へ発信するかが問われる。その成功の一例として、御桜稟と『墓碑銘の素晴らしき混乱』が挙げられるだろう。日本人でプラティーヌ・エポラール賞を最年少で受賞、そして瞳に狂気を宿した美しい少女として御桜稟がメディアの前に姿を現したのは、彼女の眠れる才能を発掘した某キュレーターの計算であり策略である。ただ天才が現れただけでは人々は見向きもしない。その場合にはアート業界に関わる人間だけがその天才の存在を認め、賛美するのみである。だから、人々を魅了するカリスマ性やその場を盛り上げるパフォーマンスによって作品と芸術家は登場させられる。それはただの発表の場というよりは演劇の舞台に近い。長山香奈主導のもとに行われた『櫻達の足跡』の改変、その現代アート的な手法は、一見すると醜悪でインパクトに欠けるものであったが、彼女もまたその場にあるライブ感と演出により自分の作品が芸術であるかのように見せるための演説をして見せた。作品が芸術であるためにはまず、見られることが大前提となっており、また、どんなものでも芸術として「見られる」可能性があるということを『櫻達の足跡』の一件は示唆している。人から見られなくなった作品、忘れ去られた作品は死んでいる。そういう意味では、故草薙健一郎が設計した櫻達の足跡はすでに過去の遺産となりつつあった。ムーア財団やその他美術関係者は、過去の芸術家が残した技法の再構成ではなく、新しい芸術表現を追い求める。芸術は過去に築き上げられた芸術の模倣であってはならない。しかし、現代に至っては一通りの方法はすでに試されておりこの期に及んで新しい芸術が生まれることはほとんどありえない。であるから、破壊的な無垢性が前面に出される現代アートが芸術と呼ばれるような袋小路に追い詰められているのが昨今のアート業界の現状である。
 それらのような印象派の勃興から始まる伝統性と大衆性のあらゆる葛藤を、夏目圭の『向日葵』は表していたと言えるだろう。芸術や経済の流動性、長大な時間の流れと短命の儚さ、権威への挑発や二重の無垢性、演出と孤立、死と生、語りえぬものへと手を伸ばさんとする焦燥と情熱……『向日葵』とは両極端に位置する概念が一枚のキャンバスの中で衝突し、胎動し続ける、まさに「生きている」作品であった。葛飾北斎歌川広重のように西洋的でも欧米的でもない、個人の独自性から生まれた夏目圭の『向日葵』は直感的に、多くの人々の心に訴えかけている。それは技法、構成、色彩感覚、形態描写などを経験として積んできた眼の肥えた批評家や画家だけが理解できるというようなものではない。夏目圭の『向日葵』は見る者の心象のなかに自然と立ち現れ、その時その瞬間において永遠に揺らめいている。草薙健一郎が世界全体の空虚、あるいは幸福を表すことに自覚的であり、そしてその通りに人々に受け取られたのとは対照的に、夏目圭の『向日葵』はある一点を凝視し続けることによって世界全体の共通項を表し、そしてその通りに人々に受け取られた。夏目圭本人がそれに自覚的であったかどうかは定かではないが、彼の目に映った世界が、そのまま見るものの眼に投影されたかのような錯覚を覚えるのは偶然ではない。この二人の天才に共通して見られるのは宮沢賢治の汎神論的な思想および詩作方法の心象スケッチだろう。草薙健一郎は思想の反映として絵を描くことに自覚的であり、『向日葵』から感じられるのは目に映っている風景そのものを写し取ったかような印象だ。思想と表現、二人の天才は別々の道から補完的に宮沢賢治に近い立場を取っていたと言えるだろう。心象スケッチと呼ばれるものは詩のみならず、絵画や音楽、陶芸などにおいても表現されえるものである。それは表現されたものとして我々の目の前に存在しながら、同時に、我々の心象そのもの、あるいは、作者の心象そのものとして現れる「心象の具現化」とでも言うべき作品である。草薙健一郎の世界全体の空虚を表した『横たわる櫻』、そしてそれに添えられた一篇の詩『櫻ノ詩』に見られる幸福の意志、それから夏目圭の『向日葵』の超両義性――それらは場所と時間を超えた魂の素描として我々人類の心象を永遠にとらえ続けるだろう。
 夏目圭はその後の日本の、世界の芸術界の次代を担う存在になるはずだった。だが、そうとはならなかった。故夏目圭の意志を継ぐかのように御桜稟が世界で活躍しているが、夏目圭が描くような作品は夏目圭にしか書けない。そして御桜稟が描く絵は御桜稟にしか書けない絵である。世界は一人の天才を失い、一人の天才を手に入れた。彼女の躍進は留まることなく、新しい芸術作品が次々と発表されていっている。それらの作品は御桜稟の世界において体系化されていくが、芸術史上で体系化されるような代物ではないだろう。御桜稟の世界はそれ自身によって築き上げられる美の神殿だからである。そして、もし夏目圭が存命していれば、彼もまた、彼にしか築き上げられないような芸術の体系を成していっただろう。しかし、それは壮麗な建造物のようなものではなく、あらゆる民族、言語の垣根を超える普遍性を持った、野ばらに咲く花々のような作品群となっただろう。それはありふれた花であると同時に、世界に一つしかない花なのである。世界が一つの作品によって結ばれる……それを可能とする唯一無二の天才は、作品をわずか一作だけ残してこの世を去ってしまった。彼が咲かせるはずだった花々……それらがない不毛の荒野を、我々は二本の向日葵をたずさえながら、歩いているのである。
 故夏目圭氏に、哀悼の意と向日葵の花束を捧げるとともに、ここで筆を置く。


著:デイビス・フリッドマン

サクラノ詩 dear My Friend

 緑色の縮小曼荼羅の紙って不死性の象徴なんだよ。カムパネルラは夢の中で実在していた人物なんだなあ。その仮構の実在を狂気ととるか、それとも幸福ととるかは人の世界の見方次第なんだな。必然の外側にしか認識は存在しない。必然を愛するなんてのは美に呪われた神くらいだ。銀河鉄道の夜の最後のほうに、真っ黒い孔が出てくるよな。あれはすべてを飲み込む虚、不可避の死を暗示するものだろう。ゴッホのまっくろい炎のような糸杉を意識して書いたのかもしれない。賢治は死後の世界をきらきらと輝くものにしたかったんだろうな。それは焼身願望であって、自殺願望だったわけじゃない。動物や植物と一体になる、それが自然なことだと生前から思っていたのだからな。賢治の心象スケッチはよく野外で行われた。というか、賢治にとって室内っていうのは窮屈で退屈な場所として捉えられていたみたいだな。農学校の先生とかやってた時に、閉塞的な人間関係に嫌気でもさしていたのかね。ずっと部屋に引きこもって詩を書いていたディキンソンとは正反対だな。でも、その背後にある思想や作品に表現されているものはよく似ている。賢治の心象はすべて外に映し出されている。農民芸術っていうのは要は大衆芸術とか印象派を意識したものだろう。風や雲、太陽や月、春と雪、そこに生きる人々、いろんなものに賢治は自分自身と他者の心を見た。その心象をそのまま記録したのが春と修羅だな。余談だけど、wateremelonの電気石っていうのは賢治が集めていた鉱石からとってる……というのは冗談。銀河鉄道の夜に出てくる黄玉のトパースかもしれないし、昔、稟が言っていた「俺が筆を持ったときには極彩色の光を放つ」っていうのが意識されていたかもしれない。まぁ、なんでもいいんだよ、俺があの詩を書いていた時、見たままのものを、そのまま素描しただけなんだからさ。それを人がどう受け取るか、その人の中で言葉がどのような意味を持つのか、それはその人次第だよ。心象スケッチを受け取るっていうのはそういうことなんだからさ。俺が見た心象風景をそのまま共有できるってわけじゃない。その心象は他者の心の中で、あるいは音読する声によって、その瞬間に命を与えられるんだからさ。ある程度まではみんなと共通するっていうのはそういうことな。だからあの詩に書かれていることは、読んだ人が思っている、あるいは感じているそのままの意味なんだよ。
 難しい哲学書なんかには言語がびっしりと書かれているもんだが、そいつに書かれている字面をただ追っているだけではそれは言語のままだな。そいつは死んでいると言ってもいいだろう。詩は声に出されて息を吹き返す。賢治の詩はそのように描かれている。なら言語はどうすれば言葉になるのか。言語というのは真理を求める心によって生かされる。水菜みたいに小難しい本を熱心に読んでいるならば、その言語は生きていると言えるだろう。真理を求める意志、冷たい光、懐疑の意志、論理の穴を見つけようと目をかっぴらいて活字を追っているとき、その言語は言葉となって生きている。まぁ、論敵をやっつけたいとか、頭良いことを言って尊敬されたいっ、とかでもいいんだけどさ。なんでもいいんだよ、その言語が音と心と交差していればさ。
 自殺のために描かれたとされるゴーギャンの遺作、あの作品が自身の人生についての批評であるなら、その芸術が私という作品を見ているという逆転した構図になる。アフォードするってやつ。作品はただ見られただけでは芸術とはならない。動物が作品を見ても、布地にぶちまけられた色の混合であったり、金ぴかの枠に収まった窓でしかない。永遠の相のもとに見られた作品だけが芸術となる。永遠の相のもとに世界を見るとは、意志と倫理の一致のもとに世界を見ることである。芸術として見られた世界は、それを見ている人の人生をも芸術とする。その循環する相互関係こそが、この世のすべてが美しいと言われるゆえんだ。芸術には神と無限が宿る。そいつが「お前の人生はいまだに未完のままである」と言っている。なぜだろうか。身体があるからだろうか。心が死から逃げようとしているからだろうか。心と身体が一致していないからだろうか。自己という殻に縛られているからだろうか。ジョバンニは天上の世界でみんなのさいわいのために、どこまでも行こうという決意をした。死後の生のその先には本当の世界が待っている。みんながいる世界だ。すべてがわたくしの中でうんぬんっていうのは賢治の汎神論的な考え方がよく表れているな。すべてを俯瞰する絶対者としての神など存在しない。仏教的な神はあらゆる他者やものの中に見てとられる。俺が生きていた頃にやってきたこと、それは俺が死んだ後にもどこかの誰か、どこかの風景に残っている。「創造主の仕事がただ一日だけのものなら、それはどのようなものか、神は決して休息されないだろう」というのは世界が常に美の発見に満ちているということを意味している。日々の中で他者の心は発見される。そしてその心の中に美が発見される。そこにあるもの、自分の身体、それを感じる心、幸福の心、死と生、現実と夢、それらが一体になるまでは人生は未完だ。ゴーギャンは絶望と死への意志によって器を満たし、そんで自殺したら自分という作品が完全になるとかぬかしていたけど、俺は幸福への意志によって世界を満たすよ。あいつはそれで完全になったのかもしんないけど、俺は仮象の春色一面の空のなかで、死と生がふわふわと包まれている状態が完全なんだと思うね。遺言にはとっておきのジョークを、死の瞬間には幸福の意志と倫理に満たされた心を、俺は世界に手向けるのさ。この緑いろの紙をもって。天上の世界へと、どこまでも、どこまでも、あのまっくろい孔の向こう側にだって行ってやるのさ。そこは死の世界じゃない。みんなの世界だ。おれがすべてのみんなになって、みんながすべてのおれになる。心ってなんだよ? ものってなんだよ? それはぜんぶここにある。おれのさいわいも、みんなのさいわいも、ここにある。



from All in your world,

サクラノ詩 手紙

いたこウィトゲンシュタイン

 紫の煙は灰色の光だ。蝶が吸いこまれていった煙突の煙は灰色の光、この世に存在しない人の心にだけ存在する光だ。桜達の足跡Ver2.0は透明な白だな。あれは世界に存在しない透明な白を表した作品なんだよ、たぶん。


健一郎

 病気で生死の境にいるということもまた戦いだろう。その痛みに屈しないほどの仮象の幸福を謳うんだよ。棺桶に片足を突っ込んでなお幸福だと笑っている、それはただ一人だけの戦いだろうか。いや、それは今まで関わってきたものすべての意義を賭けた戦いだよ。敗れれば死が凱旋するだろう。時が笑っているならば、負けじと幸福だと笑い返してやる。これは今まで選択してきた事実のすべての是非を問う戦いだ。間違っていたなどと後悔はしない。死を友とすることができたならばそれで俺の価値なんだよ。俺は死と競合する。そして生をよりいっそう美しいものとして輝かせるのさ。死の間際まで俺は幸福を謳う。俺の人生、不幸だったと伝えてくれ! そんな冗談を飛ばしながら。良い生はここにある! これが俺の永遠の相だっっ。死にそうなのに楽しそうなんて狂ってるって? そうだよ、ハッピーなんて感情は基本狂っていることなんだよ。幸福を求めすぎたらだめなんだな。死も生もすべて肯定してやるんだよ。死は決して語れないが、人の心に存在するものとして表現することはできるよ。桜の花びらが燃えて砕ける? そんな意味は仮象の春色で染めてやればいい。意味を意義で覆い隠せばいいのさ。それは素晴らしき混乱だ。踊り狂え、混沌に飲まれろ。それでも空は桜の花びらで埋め尽くされているだろう。貴様らは俺の幸福への意志によって燃え尽き砕け散るだろう。別れは何の前触れもなくやってくることがある。それは桜の花びらのように儚いものとして受け取られるだろう。でも俺の死は約束された必然だ。それはありふれたものとして、平坦なものとして受け取られるのが正しい受け取られ方だよ。稟は芸術という枠を踏み越えて遠い世界に行ってしまうと思うのか? そうじゃないことをおまえは知っているんだろう? あいつが死ぬ時だって笑っていなきゃダメだ。異国の地で自殺なんて絶対にダメだ。誰にも知られない死は死んでいる。誰かに看取られてこそその生と死の瞬間は受け継がれていくんだ。おまえが俺の墓碑銘を刻んだように、あいつも他者の手によって葬られなければならない。あいつは今お前と競合しているのだろ? 距離が離れていても分かるんだよ。あいつはお前の構想の参考になるために描き続けてるんだろ。競合するだけなら故郷でもできるだろうにな。おまえの傍にい過ぎたら均衡が保てないのだろうな。おまえの博愛は圧倒的だからな。強い神とともに生きるというのもまた生死の境界に踏み込むものだ。そんな戦いを一人で続けていたら心がもたないだろう。ツバメやアサギマダラには帰ってくる大地が必要なのだからな。お前も分かっているのだろ? 美に呪われているとはいえ稟は普通の女の子だ。今でもお前のことを好いているんだよ。稟の絵はお前に宛てられた手紙のようなものだ。その返事を受け取るために、あの屋上へ来たのだろうな。


 燃え尽きるように書く。俺のすべてを今にぶつける。生ききる。誰にも負けないくらいに。どんどん先へ行くお前に追いつくために。おまえを喜ばせるために。見えないところで頑張っているお前のために。吹はお前の力を引き出すために対決したんだってな。それは競合というよりは、先導だな。あの子、稟ちゃんは俺たちよりすんごい遠くの限界まですすんでるんだよ。すんげぇなぁ……って、お前はそう思ってるんだろ? そうじゃないんだよ。俺も稟ちゃんもお前に追いつくために必死で走ってるだけなんだよ。おまえは誰よりもすごい天才なんだからさ。死を大地に眠るものか、透明な渦に吸いこまれるものかのたとえの違いってさ、つまり健一郎さんや俺と、稟ちゃんとの違いなんだよな。渦に吸いこまれるとどうなっちゃうんだ? 幸福じゃないんかな? 自殺ENDまっしぐらか? 稟ちゃんは知っていたみたいだったな。渦に呑まれることがひどく孤独なものだってさ。それは俺が目指した限界によく似てるよ。でも俺はお前がいる大地にいたかっただけなんだよ。それは稟ちゃんだって同じだと思うよ。お前はそう思ってないみたいだけど。おまえはお前のことが一番よく分かってないよな。周りの人間のほうがよく見てるんだよ。天才とは勇気ある才能のことだってやつな。あまり関係が深くないノノ未ちゃんだってお前のことそうだって言ってたな。おまえと関われば誰だってお前がすごいやつだって気づくんだよ。おまえのことが好きな稟ちゃんならなおさらだよ。おまえの天才性が人柄から来ていることを良く知っているんだよ。おまえがみんなのために作り、生きるように、みんなもお前のために作り、生きるんだよ。稟ちゃんはさ、俺の心をすべて継いでくれたんだよ。おまえもそうしてくれたように。俺はお前の心の中で生きて、稟ちゃんの心の中で生きてるんだよ。幸福の王子ってさ、異形の愛とか自己犠牲とかの話があったけど、あれはお前だけじゃなく稟ちゃんもそうなんだよ。強い神を宿したものがお前に恋しちゃいけないんだよ。でも稟は今でもお前のことを好きだよ。だから、俺の心を継いで、お前のためだけに描いているんだよ。世界のてっぺんを取るっていう俺たちの夢を叶えるためにさ。


 私は可能性の中に住んでいる――そうではない。強い神の世界に可能性などない。美しい人々とはあなたと雫と健一郎さん。私に他者を教えてくれた素晴らしい人。あの議論の中で、私は嘘をついていた。強い神の絶対性を証明するために説得力のある材料を持てる知識から引き出した。でも、私があなたの愛を知っているという事実は強い神をもってしても消え去ることはない。そんな世界は完全じゃない。私はほころびを抱えたまま生まれ変わった。あなたに出会わなければ私は今と同じように描き続けただろう。でも、そこにある作る意味にあなたを含めた他者はいなかっただろう。あの議論に意味はあったのかな。私は嘘をついてあなたの議論の展開を手伝っていただけなんだ。私が言うことは初めから決まっていた。決して弱さを見せてはいけない。するとあなたは弱い神に辿り着いた。それもあらかじめ予想されたこと。私は確かめたかった。あなたがあなたのままであることを。そしてそれが、私の書き続ける意義になるだろうということを。意味そのものを求めているのに、心が他者の意義に満たされているのはおかしなことだけど。散文より立派な家――美の巨大な神殿。窓数もずっと多く――ものは美を認められて初めて発見される。戸も一層すぐれている――私の目はそうすることができる。それぞれの部屋には目も浸せない西洋杉――美は見られて存在するのではなくあらかじめ存在している。訪問者は美しい人々だけ――私に友人はいない、競合する相手もいない、私はあなたを扇動する。そして私の仕事はこの小さい手をいっぱい広げて天国を掴むこと――未完の作品である私が神と無限によって完成される。――ディキンソンの詩を私はそう解釈した。でもこの詩はあなたのために読まれたものだった。健一郎さんも死の帝国に書かれた一節を諳んじていた。なるほどね、と納得していたけど、それはゴーギャンと同じ意味でかな。彼は未完である自分が、天才でありながら人間として生きている自分が、いかにして神と無限によって完成されたものとして満たされると思ったのだろう……生き方か。芸術によって完成しようとする私とは違う。健一郎さんは死の瞬間まで幸福を謳い続けることによって自らの生が完成するのだと了解したのだ。私は彼とは違い芸術によって完成された作品とならなければならない。世界より先に美が存在していること、その絶対的な正しさを、そうでないと知りながら、それでも示さなければならない。私は行かなければならない。


『墓碑銘の素晴らしき混乱』

死の意義は混乱するが、死の意味は混乱しない。
忘れ去られた死は死んでいる。死は想われたときに生を受ける。
言葉にできない死は、研ぎ澄まされた意義として現れる。
死は人に見られることによって存在する。人は死を見ることはできない。
生死を選択することはできない。呪うことも祝福することもできない。
地の底の死は生を与えられ、水の底の死は死んでいる。
水の底の死は旋律によって浮上し、櫻によって空に向かう。
死は雲となり雨となって降り注ぐ。地の底に降る雨には心が宿る。
死の意味は、死の意義によって満たされる。
雨は在りし日のために降る。

サクラノ詩 PicaPicaに触れるために

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