サクラノ詩 斑達の夢跡 下


MAY
1 手に天秤を掲げ
2 環境が意図する
3 覚めない夢
4 アリス・リドル
5 隠された意味
6 水たまりの底にいる
7 マラプロップ・パラダイム
8 絵画の限界
9 描きえぬものを描く
10 無限の解釈不可能性
11 無限の評価可能性
12 屋上のエイフェル
13 忘れっぽい天使
14 mental sketch butterflies




1 手に天秤を掲げ

 ウィトゲンシュタインは規範に盲目的に従うことと示されること、つまり規範の把握が現われることを区別したが、評価によって示されるということすら必要としない、つねに盲目的に従う幸福な意味盲の世界を理想としていたと思われる。そして、それによって規範を、ひいては独我論的世界の根底を支えている倫理の存在を沈黙のうちに保とうとしたのではないだろうか。
 倫理についてほとんど語らない野矢の議論においても、梯子を登り切った先の風景としてのサクラノ詩においても、その根底には「語りと示し」の問題がつねに横たわっている。しかし、それらはウィトゲンシュタインがそうしようとしたように峻別できるようなものなのだろうか。少なくともここまでの議論では、規範は言葉の意味を問うことによって部分的に語られ、従っているか背いているかの評価のうちに示され、そしてわれわれが盲目的に従っている実践の枠組みであった。そこには語りと示しの明確な二分化は見出せないだろう。交流する人々の語りえる限界の先にある倫理は規範そのものではないし、また規範の内側にのみ存在するものでもありえない。そうであるならば、倫理は、あるいは直哉が弱い神と呼んだ存在は、いったいどこにあるのだろうか。その問いはこうも言い換えることができる。心はどこにあるのだろうか。その問いにたいする答えとして、ウィトゲンシュタインが絶対に言わないであろうことを改めてここに宣言しておこう。

 倫理は規範のうちに示されるだけではなく、異なる規範との交流によって生じる、意味の相貌によっても示される。

 倫理は規範のうちに示されるが、規範そのものではありえない。規範は盲目的に従うものを裁き、罰し、そして許す。しかし倫理は違う。倫理は人を裁くこともなく、罰することもなく、また許すこともない。規範は人の行為の帰結、できごとにたいして賞罰を与えるが、倫理はそれとは無関係であり、人の行為それ自身として、あるいは選択そのものとして現われる。しかし、なんらかの倫理的賞罰、いわゆる赦しや罪と呼ばれるものは、あらねばならない。そして、そのように見られた世界は、必然なるものとして、永遠の相のもとに捉えられるだろう……ここまではウィトゲンシュタインもおおかた賛同してくれるのではないかと思う。しかし異なる規範との交流の間に示される倫理の存在にたいしては、語りえるものと語りえぬものの明晰な境界を脅かすものであるために、周到かつ徹底的に批判を試みるはずである。。そしてじっさいにそうすることによって、かえって規範性を失いかねない思想を作り上げ、示されるはずの倫理の輪郭をも見失ったのではないだろうか。独我論的世界において心と称されるもの、あるいは相貌、意義、美、そして弱い神と称されるもの、それらを失ってもウィトゲンシュタインは「たいしたものは失わない」と言うだろう。しかしそれらの多くの異なる見方に立つことによってこそ、われわれはあらゆる苦難を引き受けることができるのではないか。論考における永遠の相とは、今ある世界がいかに苛烈を極める状況であっても、それを必然のものとして引き受けようとするところに捉えられる世界であるとされていたが、しかしわれわれはおのれの意志のみを頼りに、自らの選択をまったく後悔することなく生きられるわけではない。だからこそ、身近に人がいること、そして人とともにしか存在しない神がそばにあることが必要になるのではないか。

2 環境が意図する

 NDEのエピローグで、直哉は吹を存在させ続けるために絵を描くことを誓い、また明日会う約束を交わす。そのような達成することの困難な約束には、実現するための努力や意志の強さが試される。

「俺は、自分がやりたい事しかしない」
「だから、たとえ、それがどんな困難な事だとしても俺はそれをやり遂げる……」
「だって、俺がしたかった事だもんな」
「何があったって、やり通さないと……」

「なにも、描くのは右手だけじゃない……」
「右腕が絵画を生み出すわけじゃない」
「才能が作品を生み出すわけじゃない」
「描きたい、そういう信念が作品を生み出すんだ」
――A Nice Derangement of Epitaphs 直哉

「〜したい」というのは通常であれば欲求や願望の表明であるが、ここではやるべきこと、やると決めたことを実行する意志の表明であるとしても良いだろう。しかし、その信念や意志と呼ばれるものが現象のようなものであるとすれば、当然ながらそれだけでは作品は生まれない。作るための行為があるからこそ作品は生まれうる。だから、意志とはなんらかの心的な状態などではなく、約束や計画と同じように、行為に見出されるもの、または行為そのものとして現われる。

意志は、なにか心的動力のごときものではなく、むしろ、約束における誠実さに類比的なものと言えるだろう。交わした約束を守ろうとしない人のように、意志の弱い人は意図した行為を遂行することができない。意志とは、何らかの心的作用ではなく、「意志の強さ/弱さ」という形で行為に関わるその人の性格を表しているのである。
――『哲学航海日誌』230p

「意図」や「意志」は、「分かってもらいたい」「あてにされたい」という根元的な社会的欲望に根差していると言えるだろう。ここにこそ、規範の岩盤がある。もしそうした欲望から解脱してしまった人がいたとしたならば、その人は意図や意志とは無縁の生活を送ることになる。そしてそれゆえ、その人はまた「行為」からも解脱することになるだろう。
――『哲学航海日誌』232p

 人がなにかを決意したとき、その意志の表明もまた約束と同じように自らの行為に意味の相貌を与えるものである。そして、表明しているその場にかぎり、その人の誠実さや勇敢さなどの性格や、承認や奉仕の精神などの規範の根底にあるものが、ひとつの意志として、あるいは倫理的な態度として示される。ゆえに、直哉が自身の意志の表明によって取り決められた規範に従い続けるかぎり、「だれかのために作ること」と「自分のために作ること」は一致する。

3 覚めない夢

「これが夢だったら、永遠に覚めないよ」
「永遠に覚めない夢?」
「ああ、俺が覚めさせない」
――A Nice Derangement of Epitaphs 直哉 雫

 夢は覚めるからこそ夢であると言える。夢を見ることは疑うことや私と他者の間に生ずる意味の相貌を捉えることの比喩である。そして野矢は覚めない夢の比喩にたいしてふたつの見方を与える。まずひとつは、覚めない夢を世界のすべてを疑うことにたとえて、それは論理的に不可能なことであり、夢を見るためには目覚めている現実がなければならないとするものである。それは、疑うという行為がすでに疑いを免れている足場としての確実性を前提にしている、ということの確認するための比喩である。もうひとつは、ここで直哉が言う覚めない夢についての見方と同じものとして考えられるもので、「覚めない夢は現実と変わらない」とするものである。それは懐疑主義に見られる「世界のすべては夢である」というような前提から導かれるものではなく、私と、規範としての他者の終わりなき交流を表わしているのである。もしも相手との対話によって意味が収束していくと同時に、それ以上に意味が散乱していくのであれば、それに応じて限りなく相貌が現われることになり、覚めない夢と呼ばれうるような現実になるのではないだろうか。そしてそこに、サクラノ詩で扱われる「恋愛」という主題の意味がある。恋愛感情とは、私の心に生ずる内的な動力のことを言うのではない。感情の理由は環境と行為との関係のうちに見出されなければならない。「なぜ恋しいのか」という問いにたいする答えは、その人の身体的な原因に求められるものではなく、「好きな人が近くにいるから」とか「付き合っているから」といった状況のうちに求められる。そして状況のあり方以上に、その状況をどのように見るのか、どのような意味を持つものとして捉えるのかが、感情にとってはより本質的なのである。

「星夜の道を二人で帰る……」
「そんな奇蹟があっても良い……」
「奇蹟なもんかよ……これは必然だ」
「きらり、きらり……」
 腕を絡め笑う雫。二人で坂道を下っていく。
 空には星がきらり、きらりと輝く。
――A Nice Derangement of Epitaphs 雫 直哉

 恋しさの理由は、その人がいかなる相のもとに世界を見ているかに関わっている。この場面では夢浮坂をふたりで下っていくという状況を、雫は「奇蹟」の相のもとに、直哉は「必然」の相のもとに捉えている。そのふたつの意味の間に生じる相貌は、状況を観察しただけでは知ることはできない。それはふたりが対話に訴えることによってはじめて感情を説明するものとして現われる。そして、夜空や帰り道、夕飯の支度などといったことがさまざまな言葉によって語られ、そのたびに意味の相貌が示されることによって、ふたりの現実が覚めない夢として現われる。それと同じように、われわれもまた作品に相貌を捉え続けるのであれば、この身体の血肉は覚めない夢にとって代わるのだろう。

4 アリス・リドル

「Trompe le Monde」

 見られない絵画は死骸である

 無音の櫻の森で世界が鳴る

 踏みしめた大地は夢の音を奏でる

 標本の蝶は生きている

「A Nice Derangement of Epitaphs
この作品はそう扱われるだろう」

「真理は猫である」という文の字義通りの意味を利用して、アリスはわれわれに謎をかける。

5 隠された意味

 たとえば、「夢跡を見れば意識の繭に絡めとられて懐胎する」という文がある。われわれはその文が表現している意味をその通りに解釈するわけではない。「夢跡」「意識の繭」「懐胎する」、これらの語が通常の言語使用から離れ、隠喩として機能していることは直感的に理解することができる。だから、その言葉を読むとき、あるいは聞くとき、われわれはまずその文を構成する語の意味を考え、その字義通りの意味を踏まえたうえで、それが隠喩として伝えようとしている意味を考える。しかし、デイヴィドソンはわれわれが隠喩にたいして見出そうとする意味はそもそも存在しないものであると主張する。たとえば、先に例示した隠喩にたいして「この隠喩は、過去を思い出すという行為が「私の心」や「思い出している現在」を前提としているために反実在論的であることを意味する」という解釈を与えてみたとしても、デイヴィドソンによればその解釈は正しいわけでも間違っているわけでもない、ただその隠喩について考えをめぐらせる心的な運動があるのみだとされる。

 隠喩において字義どおりの意味を超えた隠喩的意味なるなにものかが表現されていると考えるのは誤りである。
――デイヴィドソン『墓碑銘のすてきな乱れ』

 隠喩には「正しい解釈」など存在しない。隠喩が差し出す謎に突き動かされたさまざまな運動があるだけでしかない。すべての隠喩がこの性格を持っているとは思えないが、少なくともこうした場面において、「隠喩の意味内容」ないし「隠喩が伝えるメッセージ」を考えることは、根本的に的を外しているのである。
――『哲学航海日誌』329p

 隠喩はなにも伝えていない。あるのは隠喩について考える人のさまざまな反応と、解釈した通りの意味だけで、そこにはその隠喩を表現した人が想定する正しい意味は存在しない。しかし本当にそうなのだろうか。
 たしかにアリスが「真理は猫である」と言うとき、それは真理についてのなにかしらの答えを言い表わそうとしているのではなく、その言葉を受け取る人を真理への問いへと突き動かそうとする謎かけとしての機能しかもっていない。しかし、ひとつの隠喩がそのほかの隠喩と連関をもち、かつそれらがある規範の枠組みのなかで表現されているならば、それは規範によって意味が与えられているものであると言える。もし隠喩にたいしてあらかじめ取り決められた意味が与えられているのであれば、その隠喩には隠された意味へと突き動かす力はなく、代わりに然るべき意味が与えられた実用的な言葉として扱われることになるだろう。たとえば「見られない絵画は死骸である」という隠喩的な意味が込められた命題があるとする。そして、「死骸」という語にたいして「売買しても金にならない」という意味があらかじめ取り決められていたとする。その場合、その規範のなかでは「見られない絵画は死骸である」と言えば「見られない絵画は売買しても金にならない」という然るべき意味をもった言葉として扱われる。通常であれば、「見られない絵画は死骸である」と聞けば、そこには字義通りの意味とは異なる意味が隠されているのではないかと考えたくなるが、しかしあらかじめ意味が決まっているのであれば、その言葉に疑問を感じる余地はない。いわば、その言葉はなめらかに使用されるのである。だから、その規範においては隠喩に言外の意味が表現されていると考えるのは誤りであり、もしその隠喩の意味が取り決められているのであれば、その言葉の使用には正誤評価がされうるはずである。ゆえに、規範上で解釈される隠喩には「間違った解釈」と「正しい解釈」が存在すると言えるだろう。そして、そのようなことを絵画や詩などの芸術作品にたいしても言うことができるのではないかと考えられる。

6 水たまりの底にいる

 ここにないものの名を呼ぶ
 呼ばれたものの息に
 呼んだもののくちびるがふるえ
 もう一度そっと わたしは
 ここにいないものの名を呼ぶ
――野矢茂樹『ここにないもの』

7 マラプロップ・パラダイム

 稟の墓碑銘に刻まれた意味を再び見出したい。V章の終盤で記憶と才能を取り戻した稟が発表した作品『墓碑銘の素晴らしき混乱』に込められた意味を、以前は「過去にたいする決別と感謝である」と解釈した*1。ここではそれをひとつの解釈として否定することなく、その意味を改めて考えてみたい。
 まずはその名の通り、『墓碑銘の素晴らしき混乱』の意味をデイヴィドソンの『墓碑銘のすてきな乱れ』の解釈モデルに求めてみよう。先に挙げた通り、その論文の中心となる主張は「言葉の意味は解釈されたときにしか存在しない」というものである。それと同様のことを絵画の意味についても言えるだろうか。つまり「絵画の意味は解釈されたときにしか存在しない」ということが言えるのだろうか。もし解釈モデルを徹底するならば、絵画の一般観念と呼べるようなものや、絶対的な美の基準というものは存在しえず、香奈が言う「自分で価値が作り出せない芸術家など、存在しないも同じ」というような私的な基準もありえず、そして規範によって与えられるはずの意味も存在しないことになる。
 われわれが属している規範、つまり常識の枠組みのなかで考えれば、言葉と絵画はそれぞれの表現形式や媒体によって区別することは当たり前なことである。そして、それゆえにわれわれはその前提に盲目的に従っている。発話するときの音声や、印刷されたインクの模様は言葉として認識されるし、額縁に収められた油彩画や天井に描かれた宗教画は絵画として鑑賞されるのが普通である。しかし、解釈モデルに基づいて考えれば、だれかに見られている限りにおいて、言葉は「言葉」として、絵画は「絵画」としての意味が与えられているのであり、作品そのものは、それ自体では「作品」としても「芸術」としても存在していないものとされなければならない。そうして、『墓碑銘の素晴らしき混乱』はあらゆる規範を無化する。ゆえに、われわれが漠然と持っている「絵画の概念」というものもまた、その根底から覆されることになる。

「親父から聞いていた通りの絵だった。これまでの絵画の概念すら危うくさせる様な絵だ」
「神が宿った少女か……」
「なるほどね……。人間が描くそれでは無かったよ」
「人が描いた、それではない……ですか」
「たしかに、そうかもしれませんね……」
――V 直哉 稟

『墓碑銘の素晴らしき混乱』にも、既存のすべての作品にも、正しい解釈なるものは存在せず、見られることがなければ概念も意味も存在しない。その作品は規範を徹底して無化するために、正しい評価も誤った評価も与えられることはない。そこには解釈者が見出した意味だけが与えられ、見られなくなると同時に意味は消え去る。作品にたいしていくら解釈を繰り返してみても、そこには作り手の心、思想信念、意図、意志、願い、伝えたいことはいっさい表現されていないとされるのである。
 しかし、それはあくまで解釈モデルにしたがって考えられた場合であって、実際にはそうではないと考えられる。解釈モデルの有用さはあくまで「コミュニケーションが意味改訂の運動である」ことを鋭く洞察した点にあるのだから、「意味は解釈されたときにしか存在しない」という主張のありのままを引き受けることはできない。言語実践と同様に、作品の意味は見る者が従う規範によって与えられていると考えるべきである。だとすれば、『墓碑銘の素晴らしき混乱』にたいする正しい見方とはなんだろうか。その作者はなにを伝えたかったのだろうか。

8 絵画の限界

 稟が心棒する強い神は独立して存在すると言われている。その神は人に解釈されることを必要としない。ならば、稟の墓碑銘が解釈モデルと同じ理論の上に成り立っているのは矛盾しているのではないか。そうであるなら、稟は自らの思想信念とは相容れないものを描いたことになる。
 しかし、稟は直哉との議論の最後に、宮沢賢治の『春と修羅』序から読み取れる汎神論的な思想に共鳴しているので、「独立して存在する神」を信じながらも、直哉と同じく「人とともにある神」を信じるという二重の立場をとっていると考えられる。だから、稟の描く絵画の意味は「絵画の意味は見る者が従う規範によって与えられる」というゲームモデルに基づくものであると考えたほうが妥当である。強い神がもつ意味と、規範に与えられる意味は決して同じものではない。では、『墓碑銘の素晴らしき混乱』には規範による意味とは別に、人知を超越した意味が宿っているのだろうか。まずは規範による意味より先に、その強い神について検討してみよう。
 稟は解釈モデルにもゲームモデルにも反するような「美は美として独立して存在する」ということを探究している。文字通り、それは経験を超越した存在なので解釈されることも規範に意味を与えられることもない。その探究はいかにして為されるのだろうか。強い神それ自体を絵画で表現することによってだろうか。そもそも、超越する美そのものを絵画として表現することは可能なのだろうか。以前、筆者はそのように解釈した*2。しかし今はそう考えていない。
 稟の方法はおそらく、前期ウィトゲンシュタインが論考で「私にはどれだけのことが語りえるのか」という問い立てから出発して、思考の限界を規定し、それによって語りえぬものとしての神を示そうとしたことと同じものなのではないかと考えられる。あるいは、ゲーデルが「証明も否定もできない論理式が存在する」という数学の証明論での不完全性を証明することによって、自然数論を含む公理系の限界を規定し、その先にある証明不可能な神の存在を示そうとした(と思われる)ことにも同じような動機を見出せるのではないかとも考えられる。この二人に共通して見られるのは「語り」と「示し」の明確な二分化と、論理や数学のア・プリオリな秩序の実在を信じていたことにある。それを絵画と美の関係に当てはめることが許されるのであれば、稟が為しえる方法とは「私にはどれだけのことが描きえるのか」という問いから出発し、そして実際に描くことによってその限界を規定し、不変の秩序としての美を示すことではないか。つまり、稟は描きえぬものを直接描こうとしているのではなく、描きえるものの限界を見通すことによって、その先にある描きえぬものを示そうとしているのではないだろうか。

9 (えが)きえぬものを描く

 稟がわれわれと同じ現実の世界に住み、あらゆる意味が流動していくなかで絵画を描くことしかできないのであれば、規範の意味としての描きえるものの限界を規定することは不可能に近いことであると言えるだろう。それが可能であるためには、見られることや作られることによって作品の意味が改訂されていくなかで、描きえるもののすべてを描くか、あるいは描きえるものの限界を規定し得るようなものを描かなければならない。そして、「世界の限界で絵画の意味は循環する」という流動的な世界のあり方を前提にして描くということは、ウィトゲンシュタインが夢想したような意味盲の世界や静止した沈黙の世界で描くこととは根本的に異なるものである。稟は独立する美とともに完結した世界に生きているわけではないし、絵画や想像の世界のなかで静止した時間を生きているわけでもない。絵画の意味は作り手の規範と受け手の規範の双方から与えられ、改訂されていくものでなければならないのである。

「なるほど。追いかけっこ、ね。そうかもしれない。現われない実在みたいにそこに居座ってるんじゃなくて、ことばでつかまえにいって、つかまえたと思うと、またその先に、そのことばをはみ出るもの、そのことばじゃ言い切れていないものが新しく現われてくる」
(中略)
「ことばで言い表わしえないもの――<語りえないもの>って言ってもいいけど――、語りえないものと語りうるものと、きっちり二つに分かれるんじゃなくて、なにかをことばで言い表わすと、そこには何か言い表わしきれないもどかしさみたいなのがつきまとうことがある」
――『ここにないもの』130p

 語りえぬものの多くは語ることができないが、描くことによって表現できる。しかし、描くことによって、描き切れないなにかが立ち現われてくる。そこに現われる「描きえぬもの」や「示されるもの」は、経験を超越した美の真理ではない。それは絵画に見て取られた意味にたいして、正しいのか間違っているのか、異なる意味がないか、それ以上の意味がないかという意味の改定を促す謎や、まだ経験されていない意味への予感として示されるものである。つまり、示されるものには「経験を完全に超越したもの」と、「今は経験されていないが経験されうるもの」のふたつが存在しているのである。前者は強い神であり、後者は規範の意味である。稟はまず、経験可能な意味を段階的に表現していくだろう。絵を描くことによって、その先にまだ描いていない意味が新しく現われる。それを描くことによって、さらにその先に多くの描いていないものが見え始める。それらを経験していくことによって、遥か先に経験を超越した描きえぬものが見える。そのような描きと示しの段階的な過程を経ることなく、なんの脈絡もなく美の実在を示すことはおそらく不可能なのではないだろうか。絵画の意味を追いかけ、つかまえ、受け取り、追いつく。そのような相互関係のなかで正誤評価を積み重ねていくことや、稟が所有している意味とは異なる無数の意味を発見していくき、その果てに美の真理が示されうるのではないだろうか。しかしそうであったとしても、稟にはその過程に必要な規範性が決定的に欠けているように思われる。
 意味盲の世界には異なる意味への予感が皆無であるし、解釈モデルだけでは解釈された以上の意味は存在しないために、示されるはずの規範そのものが決定的に欠けている。かつての稟は意味盲として存在していたからウィトゲンシュタイン的だと言えるし、記憶を取り戻したあとの稟は『墓碑銘の素晴らしき混乱』という作品名から推測するに解釈の原理を徹底しているとも考えられるからデイヴィドソン的だとも言えそうである。それだけ常識の枠組みから逸脱した存在である稟が、「交流」という人間的な枢軸をもとにして、描きえるものから描きえぬものを示すことができるのだろうか。

10 無限の解釈不可能性

 稟が幼少期と同じように心なきものとして、あらゆる意味や可能性を愛すべきものとしてのみ見ているとしたら、彼女にはどのような世界が開けているだろうか。

 つまりさ、どんな論理的な可能性でも、それがどんなに荒唐無稽でも、論理的に可能ならぜんぶ平等に受け入れてしまう、そんな存在。いわば、論理の神様。いったい、論理の神様には世界はどんなふうに見えるのだろう。
――『はじめて考えるときのように』153p

 その世界には正誤が存在しない。現実では起こりえないようなことでも、相矛盾する命題でも、すべてをその通りに受け入れる。最初の一歩が大地を踏みしめるのか、それとも奈落の淵に足を取られるか、その出発点においてすでに無限の全体を把握することができてしまうために、身動きをとることができない。そして、そのあらゆる可能性が混然一体となった超複相的な風景には、神様とは異なる見方、異なる規範としての他者がいないために、その世界の意味のすべてが神様と同一であり、そして神様に経験されている以外の意味はなにひとつ存在しない。ゆえにその神様は孤独である。その神様は確固とした自己を持つことができないし、また身体を動かすことによって自身を取り巻く環境の性質を発見していくこともできない。その神様は、無限個の宇宙の物理法則を許容することもできるし、人類史上に起こりえるあらゆる文明の黎明と崩壊を想起することもできるが、物理的に矛盾することも、数学的に矛盾することもすべて平等に受け入れてしまう。さらに、その混沌とした世界で、神様がかろうじて絞り出した言葉は、解釈されることがなければそもそも言葉として存在することすら許されないとしたらどうだろう。たとえば、その神様が「アレカラナンネンタッタカナ」とか「マダ、ナオクンノナカデホノオハモエツヅケテイル」などという日本語風の音声を発したとしても、それを日本語として聞き取り、理解できる者がその場にいなければ、言葉も意味も存在しないことになる。仮にだれかがそばにいてその言葉を聞いてくれていたのだとしても、規範がなければ正しい言葉も正しい意味もありはしない。ゆえに、そこに対話などと呼べるものは成立しえないだろうし、そのだれかは、他者未満の肉塊として佇んでいるだけだろう。ゲームと解釈を徹底する神様には頭の中くらいにしか居場所がない。
 しかし、その神様は可能性の世界に住まう一者ではなく、地上に生き、他者と関わり、規範を持った人間である。そして、その規範性はかつて普通の人間として生活していたという事実と、過去の記憶を共有する友人が他者としてそばにいること、そして絵画という表現の可能性を限定する枠組みによってかろうじて成り立っている。
 稟が健一郎に絵画という枷を与えられることなく、想像するままに可能性の世界を受け入れ続けたならば、論理の神様よろしく人間として生活することができなくなっていただろう。それに反して、自らが描いた絵画を評価されることは、自分とは異なる見方、異なる規範が現われること、つまり心と他者が現われることを意味する。そうして得られた経験は固定された私の見方を切り崩し、世界のあり方についての常識を形成する。そして、稟は無限に開かれた可能性にたいして、その無限の性質をそのままに、生活に関わる可能性と、非現実的な可能性に区別することができるようになる。稟は雫という他者に出会い、そして記憶を失ったあとも雫との関係を保ち続けることによって、普通の人間として生きるための足場を得ている。だから、稟は心なき意味盲でも、正誤なき解釈者でもない。稟は人として絵を描き、生活し、自身の予想を超える意味が心や他者として現われることを知っている。つまり、普通の人々が語ることによって語りえぬものと循環するように、稟もまた描くことによって描きえぬものと循環するのである。

11 無限の評価可能性

 稟が「私では行けない場所」と言った約束の地点とは、経験を超越した美を示す瞬間のことであると考えられる。しかし、そうするためにはまず経験しえる意味の限界に到達していなければならない。その過程には稟と対等に渡り合えるような他者の存在が不可欠となる。そして、それができるのは直哉をおいてほかにはいないと思われる。
 直哉はすでに一度、経験しえるすべての意味を示すという境地に達したことがある。サクラノ詩本編の最後の一文である「その時、かすかに櫻ノ詩が聞こえた」というのはまさに、直哉がその場で捉えられる限りのすべての意味を経験した瞬間であった。しかし、それによって強い神の実在が示されたわけではない。直哉が示したのは、あくまでも経験しえる範囲での意味であり、経験を超越したものについてはなにも示してはいない。そして、経験しえる意味とは人々との交流や評価を積み重ねることによって浅い意味から深い意味へと段階的に経験されていくものであるから、ひとりで絵を描き続けている稟がその過程を経ることは難しい。しかし、対等な他者としての直哉に導かれることがあるなら、ふたりは同じ意味、同じ規範を共有することによって、同じ世界の瞬間を見ることができるはずである。そして、その先に実在する強い神をも示すことが可能なのではないかと考えているのだが、正直に言って、本当にそんなことができるのかどうか、筆者にはよく分からない。ただ、稟の目的が達成可能であると擁護したかったために、たいした論拠もなくこのような散文を書いたのであって、ここまで語られてきた強い神の実在についての議論に正当性はまったくない。だから、ごく個人的な願望として、いつかふたりがほかにだれもいない場所へ辿りつく瞬間が訪れるかもしれないと、たまにそんなことを考えもするのである。

12 屋上のエイフェル

 稟の墓碑銘の「伝えたいこと」はなんだったのだろうか。
 健一郎は「意味の取り違いが、より素晴らしき意義を生む」ことを、墓碑銘の素晴らしき混乱と呼んだ。それは直哉が贋作として描いていた『六相図』を見る前に語られた言葉である。それは作品にたいして、作り手が想定しえない解釈が作品にたいして無数に為されること、その意味の取り違いによって新しい意味が絶えず現われ続けることを指している。その素晴らしき意義と呼ばれうるものが、言葉では言い表しきれない意味として受け手に伝えられる。
 ある作品が真作であるのか贋作であるのか、表現されたものが正しいものなのか間違っているものなのか、それを決めるのは作り手ではなく受け手である。受け手は自らが属する規範に従い作品を評価する。だが、規範から見出された意味というのは、言語的かつ概念的な浅い理解にとどまるものでしかなく、そこに属し続ける限り、その先にあるより深い意義をつかむことはできない。意義と呼ばれうるものは、正誤の評価を超えた領域に存在するものである。ゆえに、健一郎が『六相図』を見たとき、そこにあったのは、経験された死の様相の意義と、言葉では言い表しきれない直哉の思いであり、それが正しく伝えられたかどうかは問うことができず、作り手と受け手の行為や態度によって示されるしかない。
 では、稟の墓碑銘が伝える言葉では言い表わしきれない意義とはなんだったのか。墓碑銘にたいして直哉が評価らしい言葉を口にしたのは以下の場面である。

 その絵は『墓碑銘の素晴らしき混乱』と名付けられていた。
 会場は静まりかえっていた。
 いや、凍り付いたかの様な会場。
 感動というよりも戦慄に近い感情が会場を支配していた。
 俺はその絵を見て、ある種、納得した。
 ああ、そうか……そうなのかもな……。

「雫や草薙くんが私のために、ずっと隠し通していた事……、すべて私は思い出しました……」
「だから……」
 稟は言葉をつまらせる。
「あの絵はそういうものなんだろうな……」
――V 稟 直哉

 上記の引用からは「評価している」という事実を読み取ることはできない。しかし、作品に描かれていることの多くはもともと語りえないものであり、そして稟の本当に伝えたいことを受け取ることに無駄なおしゃべりは必要ない。言葉の理解を超えた意義として、伝えたいことは表現されている。それを受け取ったことを示すのは行為や態度によってであるが、詩によって語ることもできるだろう。

13 ふたりは腰かけ岩

「いま自分が思いだしてることだけで、……いま思いだされた内容だけでさ、いまと十年前をつなごうとすると、記憶も<外側>をなくしちまうことになる。夢見てる最中の夢とおんなじだ。そうなったら、もう、過去の自分は取り残されるしかない。だけど記憶は、体をもたない自分がただ自分ひとりの思いの中だけで繰り広げるもんじゃない」
「ぼくが、エプちゃんやトットさんたちと思い出の話をするときとか?」
「そういうのもある。ていうか、そういうのが一番だいじなのかもしれないな。そんなみんなとのやりとりの中で、十年前の自分がいまの自分とつながったひとりの自分だってことが、かろうじて成り立っている」
――『ここにないもの』84p

「じゃあ、記憶は外にあるの?」
「いや、外っていうとあれだな、外側があるって言うと内側もあるってことになっちまう。そうじゃなくて、記憶はだれかと思い出話をしているときのあいだに見えてくるものなんだよ」
「でも、やっぱり頭のなかにある思い出もちゃんと思い出だよ?」
「記憶がちゃんと頭のなかにもあるってことが言いたいのか? たしかにそうだな。でもそれだけじゃだめなんだと思う。頭のなかで思い出しているだけだと、思い出している人は、思い出している<今>に閉じ込められてしまう。そうしたら記憶は、今まで現実に築いてきたものとまったく無関係になっちまう、そんな気がするんだ」
「ここから家までの帰り道とか?」
「そうだな。もし完璧な記憶力を持っていたとしても、その人には帰る場所すら与えられない。だってその人には思い出している今しかなくて、今まで地に足をつけて生きてきた過去がないんだから」
「完璧な記憶力なんてあったら毎日がエブリデイかも」
「ハッピーだろ。それか日曜とか。でも、そんなもんがあったらかえって自分の世界を一人で抱え込んで、自分のことは自分が一番よく分かっているとか自分のことは自分にしか分からないって気分になるかもしれない。そんなのがハッピーなもんかよ」
「忘れたいことも忘れられないね」
「ああ、でもそういうのは隠すもんじゃなくて、だれかに話してみて、じつはそんなに忘れたくなるほど嫌な思い出じゃなかったって気づくときがあるだろ? そうやってだれかの目線で、だれかの言葉で思い出を見直すとき、記憶ってのは正しくなってるんじゃないか?」
「ただしく?」
「なんていうかさ、完璧であればいいってわけじゃないんだよ。だってそれは自分から見ただけの正しさでしかないんだから。そんでたぶん、それは<正しい記憶>なんていうふうには言えないんだよ。自分が変わったと思うものにたいして、変わってないじゃないかって言う人がいる、あるいはは新しくなっていっていると思うのに、古くなってるだろっていう人がいる。そうやって話し合うから、昔あったものと今ここにあるものがひとつの時間の流れのなかでつながっていくんじゃないか?」
「エプちゃん」
「なんだよ」
「雨」
「ん? ああ、降ってきたな」
「帰ろっか」
「そうだな、そうするか」
 ふたりは立ちあがり、まだらになった帰り道を歩きはじめた。

14 感謝の雨の底にいる

     (mental sketch butterflies)

仮象のなないろ雨ささめ
やみくもひのこの誘蛾灯
きらりきらりとまだら舞う

夢のつづきにみなめさめ
はるか記憶の夢かたる
つがいに連なる在りし夢

うずまきあやなせひとの群れ
ちりぢり散らばれこのからだ
こころそこなる詩うたえ

こころあるものいないもの
ここにあるもの示される
ここに在りし日いつかの刻

はじめて恋するときのように
そこであなたと歌うんだ
たったひとつの瞬間を

……わたしはたまにこんなことを考えるんだ
この透明な渦の底を
渡りながら



















・参考文献
野矢茂樹
『心と他者』中公文庫
『哲学航海日誌』春秋社
『ここにないもの』中公文庫
『はじめて考えるときのように』PHP文庫

『規則とアスペクト:『哲学探究』 第II部からの展開』(PDF)
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/33523/1/36%282%29_PR95-135.pdf

*1:当ブログ「生きる遺志を継ぐために」における稟の墓碑銘についての解釈。

*2:当ブログ「円環の現在」における稟の強い神についての解釈。