サクラノ詩 ZYPRESSENの階段

1936. marchen
1922. mental sketch modified
1883. Also sprach Zarathustra
1604. Vom Freunde
1572. Tycho's Supernova



1936. marchen

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。

陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……

――中原中也『一つのメルヘン』


 はじめに、marchen(里奈と優美の百合シナリオ)が優美の見た夢であるという可能性を検討したい。
 中原中也の『一つのメルヘン』が作中で引用されたのは、marchenで優美と里奈が糸杉の公園で寝転がっている場面である。一般的な解釈によると、この詞は現実のものではない幻想世界を描いた作品であるとされている。それはドイツ語でおとぎ話や童話を意味する「メルヘン」という言葉が作品名に冠されていることや、第一連において「秋の夜」でありながら「陽は、さらさらと、さらさらと射してゐる」と書かれているように、夜と昼が同時間的に並置されていることにも端的に表れている。さらに第二連〜四連にかけて非現実的な情景が続いていき、そして最後の一節において川床に水が流れることによって時間が流れ始めたこと、つまり幻想の風景から目を覚まし現実へと帰っていくことが表わされる。
 糸杉の公園で『一つのメルヘン』を諳んじた優美は続けて以下のように独白する。

 秋の夜。
 どこか彼方。
 夜にさらさらと射す陽……。
 『一つのメルヘン』
 そう、これは一つのメルヘンなのだ。
 私は、そう理解した。
――marchen 優美

 ここで指示されている「これ」とは優美がその目で見ている風景のことだろう。優美は「これ」が夢であることを自覚している。だからこそ目の前に広がる風景が「どこか彼方」のように感じられ、「夜にさらさらと射す陽」という相矛盾する二つのモチーフが混在しているのである。
 marchenが夢である可能性を裏付ける根拠は他にもある。
 以下の画像は、marchenのエピローグで一度だけ使用された背景と、V章で複数回使用された背景である。

画像1

画像2

 見比べてみれば明らかなように、両者の星の位置は左右反転している。正しい位置で描かれているのは画像2のV章の背景である。天球儀でもない限り、星の位置が反転して描かれることはない。だから画像1の背景は、marchenが現実のものではないことを表していると考えるのが妥当なのである。
 その前提の上で、marchenがいかなる世界なのかを説明する仮説はいくつかある。例えば「千年桜が奇蹟によって優美の願いを叶えた世界である」とか「雫が夢呑みの力で見た淫夢である」とか「誰かが描いた作中作の物語である」など、それこそ可能性だけならいくらでもありそうなのだが、本筋のZYPRESSENともっとも齟齬のない形で収められる可能性は「部室で眠っていた優美の見た夢である」と筆者は考える。なぜなら里奈がグリム童話の『赤ずきんちゃん』を読んでいるその場面において、ZYPRESSENとmarchenのシナリオは決定的に分岐するからである。絵本を朗読する里奈にたいして、眠っているはずの優美がシャルル・ペロー版の『赤ずきんちゃん』にある一節、「ちょうどその時、狩人がおもてを通りかかって、はてなと思って立ちどまりました……」という寝言を呟くことによって、今後の二人の関係に直哉が仲介するZYPRESSENのシナリオに進み、なにもなければmarchenのシナリオに進む。それらの決定的な違いは直哉という他者の存在であり、彼との関わりがない優美は、里奈と「二人でひとつになる」というような夢のなかでしか成就しない同一化願望を満たすことができるが、それ以外のものはなにひとつ得ることはできない。それならそれでいい、人の幸福はそれぞれである、と許容することもできるが、しかしmarchenが『サクラノ詩』(以下、さくうた)の一貫した主張に反する限り、それは現実のものではないとして否定されなければならない。さくうたの主張を一言で言い表せば「すべてはひとつである」といえるだろうが*1、ZYPRESSENおよびmarchenでより注目されるべきなのは「心と身体はひとつである」という心身一元論の見方であろう。健一郎や水菜が口癖のように語っていた言葉「No matter. Never mind.」とは、心と身体の不可分性を示したものであり、したがってそれはさくうたの全体にわたる不文律を端的に表しているのだが、それにたいして夢の世界であるmarchenは、その世界そのものが事実として存在しているとは言えないし、心と身体が実在しているとは言えない。夢を見ている当事者である優美の心は実在していると言えるかもしれないが、他者である里奈は優美が作り出した虚像でしかない。優美はそれを自覚しているために「事実がない」という確実性のゆらぎに怯えているさまがうかがえる。

 私は里奈の胸にしがみついた。
 私は里奈の肌の中で震えた。
 里奈が「どうしたの?」と苦笑いした。
 すべては一つのメルヘン。
 二つとはないメルヘン。
――優美

 さくうたは「事実がある」ということをすべての前提とし、かつ最重要のものであるとする。事実がなければ夢を見ることもできないし、なにかを美しいと感じることもできない。夢のなかで「すべてはひとつである」または「二人でひとつである」というように他者と痛みを共有することができたとしても、そこに事実がないのであればその痛みは本当の意味で実在しているとは言えないのである。
 そのようにしてmarchenは逆説的な立場を取ることによってさくうたの一貫性を補強するような役割を担っているが、見方を変えればZYPRESSENの優美の成長に対する幼児性への退行を表しているとも取れる。その場合、marchenは優美が肯定できなかった自身の身体の醜さを受容するために見た都合の良い幻想であると解釈できるだろう。それは里奈と純潔のままに結ばれ、慈しまれ、容姿を褒められる、そのようにして小児的な同一化の願望を満たしつつ、かねてよりコンプレックスであった己自身の心と身体の醜さを許してしまおうという動機に基づく夢である。それに対するZYPRESSENは、二人の成長を描いた物語であり、二人が心と身体の醜さを克服する過程を描いた物語であると言える。ZYPRESSENの百合は、精神的な意味でマッチョな百合である。ゆるくもなくふわふわしてもいない、強い意志によって結びつき、良き友であるために互いに適切な距離を置き、それぞれの美に向かってふたつの道を歩む相互補完的な百合である。二人は心と身体の不可分性を、二人の関係性によって読者に指し示す。そして二人を結び付けるために欠かせない存在なのが直哉である。ZYPRESSENが三点透視図法という構造をもって三様の角度から物語を投射したのは、自己評価と他者評価の相違を比較することによって実在と醜美の問題がより明瞭に浮かび上がるからである。さくうたは広い意味での「美」を主題としているが、それに比べて優美や里奈の人格や外見に対する醜美の評価は視野狭窄通俗的なものであると言わざるを得ない。だからこそそれは克服されるべきなのである。

1922. mental sketch modified

心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐食の湿地
いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様
 (夕刻の管楽(かんがく)よりもしげく
  琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
十月の気層のひかりの底を
(つばき)しはぎしりゆききする
わたしはそんな修羅なのだ

 ZYPRESSENの夜。
 私は彼女を好きになった。
 そして、よだかは青い炎となり、蠍は赤い炎となった。
 けれども、醜い私は、何にもなれなかった。

 私の精神はまさに蛆の様であった。
死を受け入れようとする彼女を、
励ます事もなく、
ただ好きになってしまった。
本当に蛆虫の精神だ。
――Yumi perspective

 階段を登るための一歩目を踏み出すためには、まずそのまえに足場の確認をしなければならない。だから優美の物語の出発点となる「心の価値と実在の否定」を振り返りつつ整理する。
 さくうたの本編からおよそ6年前のこと、里奈と出会った頃の優美は自身の心と異性の身体の醜さを嫌悪していた。ただ生理的に、あるいは条件付けの結果として「醜い」という評価を下していた。人間には一度嫌いになったものにたいして嫌いな理由を後付けで加える傾向がある。えてして自己評価の低い人間はそのまま放っておけば際限りなくダメになっていく。優美も多分に洩れずそうであったし、だからこそその反動として美しいものに憧れもした。しかし凡人である優美は芸術的素養のある天才や審美眼のある才人のように美を評価する基準が養われておらず、表層的な美しさだけを評価するにとどまっていたのである。

 彼女には、心などとは言えない虚空だけがあり、外から入ってきた情報を、ゼンマイやネジがただ機械的に処理しているだけであれば良いと思った。
 氷川さんに心などいらない。
 彼女には美しい外見と空虚な中身だけがあれば良い。
――Yumi perspective

 他者理解の一歩目とは、その実在を認めることに他ならない。しかしここでは他者である里奈の心の実在が否定されている。それは安易な独我論者や哲学かぶれの反実在論者と同じ立場であるとしてもよいだろう。さくうたは徹頭徹尾実在論派だから、優美はそれとまったく正反対の立場を取っているのである。足場のない足場、奈落のような足場である。だから優美は里奈を「幽霊のように感じる」という希薄な現実感を出発点とし、さらに他者の心を見ないことだけではなく、里奈と同一化しようとすることによって「私の心はここにある」という事実すら包み隠そうとする。

 私は「私」を愛するよりも、美しい同性を愛した。
 たぶん、それは自己投影の一種だったのだと思う。
 私は氷川さんになりたい。
 仄かにゆらぐ弱々しい青い炎になりたい。
――Yumi perspective

 正しいことは美しい。さくうたが一貫してそう訴えるならば、事実との整合性を考慮しない醜美の評価はナンセンスであると言える。しかしえてして人は他者にたいして恣意的な印象によるレッテルを張り、そのあとから実際に関わり合うことを始めるものである。正しさと美しさは頭のなかにはじめから収まっているものではない。だから優美はゴッホの糸杉や宮沢賢治の『よだかの星』、『銀河鉄道の夜』に登場するバルドラの蠍の物語といった文学の知識を披露する里奈の姿に魅せられ、彼女の容姿だけでなくその心の美しさを認めるようになる。他者理解とはそのようにして評価を幾度も修正していくことなのだが、しかしやはりそこには実在の確かさが欠けているために、その美への求心には薄氷を渡り歩くような危うさがある。
 一方で里奈は優美のことをどのように見ていたのだろうか。部室で絵本を読んでいる場面で、里奈は当時を振り返ってこう言っている。

「単に疎ましかっただけ……」
「うらやましかっただけ……」
「日陰にいる毒きのこの少女には、いつもオオカミは輝いて見えた」
「青く黒いたてがみ、白く輝く肌」
「そのすべてが美しく、そして疎ましかった……」
「死の淵にいる私にとって……」
――Rina perspective

 里奈から見えるパースペクティブでは実在の問題についての言及はないが、しかし里奈自身が本心を語ることで、その心の実在性が「そこにあるもの」として浮かび上がってくる構造を有している。それまでの直哉や優美の視点ではいっさい見えることのなかった里奈の根暗な心情が、無音の室内に響く朗読と相まって極めて印象的であり、架空の人物であるはずの里奈が真に迫る瞬間として書き出されている*2。そのような現実の人間と作品内の人物を等しく「他者」として見ることができるような瞬間を、6年前の里奈は糸杉を描くゴッホや星になったよだかや、バルドラの野原の蠍に求めていた。それらの他者の意味と意義を正しく捕まえた時、身体への執着を捨て死を受け入れることができると、そう考えていた。心の実在に関しては、里奈はその実践において優美の遥か先を行っていたが、その反面、身体があること、生きることを無条件に肯定していた優美に憧れていたと明かされたように、身体の実在に関しては大きく後れを取っていた。そもそも身体があるとはどういうことなのだろうか。それは当たり前の事実として「ここにある」のみであり、そのようにして問うことも答える必要もないものである。しかし死に囚われている里奈は、その確実性の問題を疑い、向き合わざるを得ない。優美が心の実在を問題にしているのに対して、里奈は身体の実在を問題にしているのである。二人の出発点と目的地はまるで対極に位置している。それを階段の両極に例えるならば、優美が心を理解する過程は階段を昇ること、里奈が身体を受け入れる過程は階段を降りることだとすることができるだろう。そして二つパースペクティブを直哉が蝶番として固定することによって、二人はその第一歩を踏み出すための契機を掴むのである*3

1883. Also sprach Zarathustra

 (風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路(めぢ)をかぎり
 れいろうの天の海には
  聖玻璃(せいはり)の風が行き交い
   ZYPRESSEN 秋空にいちれつ
    くろぐろと光素(エーテル)を吸い
     その暗い脚並(あしなみ)からは
      夢浮きの海さへひかるのに
      (陽炎の波と白い偏光)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの十月の海の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  わたしはそんな修羅なのだ

 俺が愛するのは、没落して自分を捧げる理由を、まず星のかなたに求めようとはしない人間たちだ。連中は、この地上がいつか超人のものになるようにと、自分をこの地上に捧げるのだ。
――ニーチェツァラトゥストラ』前口上*4

 没落とは哲学や精神に生きることをやめ、地上に降りて生活をすることである。それは身体があるという事実を認め、身体とともに生きるということを意味している。
「没落」の一般的な意味は、「おちこぼれる」とか「衰退する」というほどものであるが、本稿における「没落」はニーチェの『ツァラトゥストラ』(以下、『』略)と同様の意味で扱う。過去編の里奈と優美の二人だけの物語は陰湿で退廃的な様相を帯びていたが、直哉が関わり始めた場面から直線的な勢いが生まれ、ツァラトゥストラの実践がちらつき始める。それは里奈から死の影が取り除かれ、彼女が生きることを志していく過程に表れている。

櫻の芸術家は私から彼女を奪う。
正しいやり方で、
彼女の冷たそうな青い肌が、赤く火照りはじめる。
描くたびに、彼女の生命力は増していく。
――Yumi perspective

 ツァラトゥストラが最も重視したのは、聞き手の精神を啓発することや、旧来の神学思想を批判することではなく、身体を通じて世界を経験し、発見し、その痛みとともにある言葉をユーモアを交えて歌い上げることであった。それは決して頭ごなしのお堅い思想などではない。地上を生きることを知っている者はよく踊り、よく笑う。美しい星になることを夢見ることが、身体があってこその憧憬であることを心得ている。赤い炎は自己焼身のひかりではなく、燃える太陽の生命のひかりであることを知っている。そのように生きるツァラトゥストラの言葉は哲学ではなく詩である。詩に厳格な定義などなく、それは日々の生活から自然と口をついて出てくるもの。そこにある身体と言葉に差はなくなり、そして「絵を描くこと」すらも同じ重さとなる。里奈と直哉の絵を通じた交流は、ツァラトゥストラが山から人々の暮らす地上へと没落する過程そのものである。その果てに里奈は、生きる意志と健全な身体を手に入れる。

 力が慈悲深くなり、目に見える世界に降りてくるとき、そうやって降りてくることを俺は美と呼ぶ。
 ほかの誰でもない、力の強い君にこそ、俺は美を要求する。優しくなることを、自分を克服する最後の仕事とせよ。
――ニーチェツァラトゥストラ』おごそかな人間について

 ツァラトゥストラの言う美とは、直哉が信仰する弱い神と同じものであると考えてもよいだろう。そこではあらゆる痛みや行為が価値あるものとされる。しかしそこには一人で生きているだけでは発見できないものが多く含まれる。「私」という自己は他者との関わりのなかで発見され、他者にとっての「私」もまた関わりのなかで発見される。それは人が発達するうえで欠かすことのできない儀礼である。だから第三者である直哉が、ずるずると同一化しようとする二人の間に介入することで、二人の自己と他者への評価は正しく導かれ、ドームに描かれた作品が嵐の夜に完成した時に、心と身体の実在を認めるに至るのである。しかし二人の歩みはそこで終わったわけではない。三人が出会ってから6年が経った本編においても、優美は自分の醜さに固執していたし、里奈は妹として直哉の一歩後ろを歩いてばかりで、恋愛に生きることができずにいた。芸術は人を一瞬で変える力を持っているが、それよりも大事なのは日々の積み重ねである。二人がそのまま相互依存の関係を続けていては、marchenのような爛れた関係に発展してしまいかねない。だから二人が幸福を過小評価することなく、誇張された自己を妄想することなく正しく生を捕まえるためには、他者との適切な距離が必要なのである。

1604. Vom Freunde

浜辺の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
足を止めわたしを見るそのおとこ
ほんとうにわたしが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
 (かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた夕ぞらを()
 (まことのことばはここになく
  修羅のなみだはつちにふる)

「友の寝顔を、君は眺めたことがあるか? 友の素顔を知ろうとして? 日頃目にする友の顔とは、そもそも何か? そして驚かなかったか、その友の相好に?」
――II 里奈*5

 上記の引用はII章の冒頭、夏休みの補習の帰りにプール際で眠っていた直哉の寝顔を見ていた里奈が語った、ツァラトゥストラ第一部の「友だちについて」の一節である。「日頃目にする友の顔」とは凸凹に歪んだ鏡に映った自分の顔である。自己と他者は鏡像の関係にあり、相手がどのように見えるのかは、ひるがえって自分が相手をどのように見ているのかという主観への客観視に通ずる。しかし近すぎる距離から鏡をのぞいても、像が正しく結ばれることはない。それは自己と他者を正しく評価することができないことを意味する。さらに「友の寝顔」を眺めることとは、それよりもずっと近い距離から鏡を覗こうとする行為である。それは友の前で裸になることと同義であり、対等の関係であることを望む友の名誉を傷つけるものである。寝顔を見、その相好に驚くことが許されるのは、恋人か家族になった者のみである。
 友の痛みを我がものとせよ、とツァラトゥストラは言う。そして、それは同情であってはならないとも。

 同情するなら、まず推測するべきだ。友だちが同情を求めているのかどうか、それをまず君は知るべきなのだ。もしかしたら友だちが大好きなのは、君の澄んだ不屈の目であり、君の永遠の視線なのかもしれない。
――ニーチェツァラトゥストラ』友だちについて

優美は我慢してくれている。
優美の気持ちを考えたら。
――Rina perspective 選択肢

 優美と里奈がレズではなくマッチョな関係であるならば、二人は対等な友として適切な距離を取るべきである。ZYPRESSENの冒頭の選択肢で示されていたのは、里奈が優美の痛みにたいして同情するか、推測するにとどまるかの意思決定だったのである。友であるためには、適切な距離を保ちながら同じ目線に立つことが条件である。優美はその条件を、里奈よりも先に直哉との関係においてすでに満たしていた。

「私達は恋敵というわけですよね……」
「そうかもしれないな。案外俺達は似ているからな……」
「似ている? ど、どこが」
「お前だって、よっぽど奉仕の精神だよ」
「氷川のために尽くしている。おとなしいレズビアンだよ」
「俺はそんなお前を疎ましくも思うが、好きでもある」

「あなたを知れば知るほど、私はあなたにも幸せになってほしいって思ってしまう」
「憎き恋敵、絶対優位な恋敵……それなのに……」
「私はあなたの絵を見るたびに、あなたが描いている姿を見るたびに、私はあなたに幸せになってほしいと感じた……」
――Naoya perspective

 上記の引用は、三人がデートをした後に伯奇神社で優美が本心を打ち明け、里奈と直哉が結ばれる場面である。ここで三者三様の評価は大きく修正される。それまでの優美は直哉に絶対性を見ていたし、鈍感な直哉は里奈の好意に気づかず、里奈は優美に力強い狼の像を見ていたが、それらの虚像は彼らが本心を晒すことによって、誇張も卑下もされないありのままの実像へと修正されるのである。ひるがえってそれは正しく自己を評価することにも通ずる。それはその後の里奈が直哉と恋人として過ごしていくことで身体の幸福を発見していき、二人でひとつの芸術を作っていくことで心を昇華させようとする意志に表れていたし、失恋した優美がなおも二人の幸福のために行動し続けたことにも表れていただろう。その奉仕の心には実践が伴っている。心と身体は切り離されているものではないということを、優美はその身をもって示している。飛翔と没落は、地上を生きる者の推移する過程のなかで絶えず循環している。一方を求めたからといって、一方が否定されるわけではない。では物語の終わりに、夕日の海岸で優美が声に出して歌った『春と修羅*6は、彼女の心と身体の関係をどのように修正したのだろうか。優美が秋空へと向けて歌った詩は、嘘の言葉だったのだろうか、まことのことばだったのだろうか。

1572. Tycho's Supernova

あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
 (このからだそらのみぢんにちらばれ)
さくらのこずえまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ

 そろそろ夕刻。
 セイタカアワダチソウが騒ぎ出す。
 真っ赤な眼光の夕日。
 それを見つめる私の目も赤い。
 風が鋭く冷たく、そして、気持ちいい。
――Yumi perspective

そうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。
――宮沢賢治よだかの星

 無駄なおしゃべりは身体を濁らせる。
 透き通った心には研ぎ澄まされた意義だけが浮かび上がる。
 詩は語りえぬものを語る。
 優美が里奈と出会ってから夕日の海岸に至るまでの6年間、それは優美が修羅として生きてきた軌跡であると言える。修羅とは天上の美しいものに憧れながら、自身の醜さに苛まれ、唾し、地の底を歩む存在である。ZYPRESSENで示された優美の物語は、宮沢賢治の『春と修羅』に記録された修羅の軌跡と、それから『よだかの星』の自己焼身の物語に符合する。それらは自己の醜さを露見する「心象のはいいろはがねから」始まり、他者との関わりや対象を芸術として鑑賞する訓練を通じて、「雲の火ばなは降りそそぐ」という祝福された心象で幕を閉じる。優美がその最後の一節を歌い上げた瞬間、彼女はその詩とよだかの物語に限りなく近い存在として昇華されているはずである。しかしVI章の直哉と藍のように、その時、その瞬間をとりまくすべての環境をひとつの意味として捉えられたというわけではないだろう。その境地に優美は至れていないのだろうが、しかし少なくとも『春と修羅』と『よだかの星』に内在するすべての価値、からだ、こころ、ことば、を優美自身の痛みとひとつのものとして捉えられたのだと、そう思いたい。なぜなら優美と修羅とよだかの相互関係の成立は、読者と作者と作品が意味と意義を共有できる可能性を示唆しているからである。私がここにいるという事実と、詩と、そして物語。それらがひとつとなる刻を、円環の現在において正しく捉えることは可能である。いつかどこかの作者が見た風景、あるいは遥か彼方の故人が見た風景、それが心象スケッチとしてその通りに正しく記録され、それを受け取った人々がその作品の意味と意義を捕まえる。そしてそれを糧に新たな作品を構想し、作り、次代に継がれる作品を残していく。そうすることによって作者が記録した風景は何度でも蘇る。作品は見る者によって何度でも生まれ変わる。作者と作品と読者の交流に終わりはない。
 優美が見た真っ赤な眼光の夕日。
 それを見つめる私の目も赤い。
 風を切って階段を駆け上がったその先には、ゆうみの星がひかりかがやく。

 それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
 すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
 そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
 今でもまだ燃えています。

*1:「すべてはひとつである」または「事実と価値の不可分性」については当ブログのさくうた感想「円環の現在」に書いてあるのでそちらを参照されたい。

*2:さくうたは全編にわたってBGMが流れ続けているが、一つの場面でBGMがいっさい使われないのはこの場面のみである。個人的には「無音を効果的に使う」というのはもっとやって欲しいものです。

*3:ウィトゲンシュタインは「疑われていない、かつ根拠のない支え」である確実性を「蝶番」に例えていたことから、ここでは確実性の化身である直哉を蝶番そのものとして例えている。

*4:本稿で引用している『ツァラトゥストラ』はすべて光文社古典新訳文庫の丘沢静也訳である。岩波版や新潮版の格調高く霊験あらたかなツァラトゥストラではなく、砕けた口調で心とからだのフットワークを軽くすることを説くエクササイズの先生としてのツァラトゥストラが読める。この旧訳から新訳への解釈の転換は、すばひび(思想)からさくうた(実践)への移行に符合しているものと見ることもできる。

*5:里奈の引用は旧訳でも新訳でもないので、すかぢの私訳だと思われる。

*6:ここで言う『春と修羅』は詩集のタイトルではなく、巻頭詩である『春と修羅 序』でもなく、その中に収められた一篇の詩のこと。青空文庫版の原詩はこちら。http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html#midashi290 それから優美が歌った『春と修羅』の一節は原詩ではなく、彼女が置かれている状況に合うようにアレンジされたものである。それにしたがって本稿で引用している『春と修羅』にも筆者が要所に手を加えている。なお『春と修羅』の解題には以下のリンク先を参考にした。http://www.geocities.jp/mikamijinja05/yogo.html