サクラノ詩 円環の現在 下

5 リヴァイヴァル・アフター
5.1
5.11 圭
5.12 大地
5.2
5.21 唯美主義
5.22 心と自然
5.23 弱い神
5.24 強い神
5.3
5.31 稟
5.32 因果交流
5.33 櫻の森の上を舞う
5.4
5.41 意味と意義の再考
5.42 痛みはひとつ
5.43 櫻の森の下を歩む
6 伝えたいこと、たったひとつ
6.1
6.2
6.3
7

参考リンク・読書案内

5 リヴァイヴァル・アフター

5.1

You dropped a purple ravelling in―

5.11 圭

 稟と直哉の神についての話をする前に、圭の死について触れなければならない。なぜなら彼の死がすばひびの思想とそれ以後を分ける転換点となっているからである。
「幸福に生きよ」とともにある生きる意志の絶対の肯定は圭の死によって決定的に崩壊する。その事実はこの世に永遠が無いことを再確認させる。それまでも永遠を否定していた直哉だが、しかし彼自身もまた圭とともに世界の頂点に立つ芸術家になるという夢や「いつか描ける」という見果てぬ夢を見ていた。夢を見るということは神を信じることでもあり、生の意義でもある。それはありふれたもののなかに隠されていて、作中のそれまでの物語のなかで一度も語られることはなかった。というのはそれが直哉にとっては自明のことであり、だからこそ疑われる必要のない確かな意義として存在していたからである。しかしその夢は圭の死によってはじめて言葉にされ、それがここにある現実においてたしかに失われたものであるということが確認される。

「漠然と、いつか絵が昔みたいに描ける時がくるんじゃないかって」
「時が経てば、また昔みたいな絵が描けるんじゃないかって……そんな甘い幻想を抱いていた」
「あいつといるだけで、俺は、昔の俺に戻れる様な、そんな気が勝手にしていた……」
「あいつはバカみたいに、俺と自分が天才だなんて言ってくれたが――」
「俺は、そんなあいつを、バカだ。バカだって言ってたけどさ……」
「同じなんだよ……」
「俺だって同じ様に思っていた……」
「いつの日にか、圭と一緒に、対等な立場で絵が描ける時が、たぶん、二人は世界に羽ばたく様な芸術家になっている」
「ガキの様な戯言だが……」
「それでも、そんな夢によって、俺は支えられていた……」
――V 直哉

 意義を失った直哉は激情のままに意味をも疑ってしまう。自分がどのような事実に立脚しているのかを考えることは、すばひびの出発点でもあった「疑われていない自己」を疑うことでもある。そしてそれが間違っていたのだと断定することは、私がたしかに存在していることの否定にも通ずる。上記の引用部の後には選択肢が提示されるが、それはこの「疑われていない自己」についての再確認だと言える。「分からない」を選択した場合、V章の先へと進むことができるが、しかしその答えそのものが現実の確かさを保証するものとして語られているのではない。そうではなく、直哉が藍に支えられ、また藍を支えることによって意味がたしかにここにあることが示されているのである。

「足下は奈落の様だった」
「けど、今は違う……」
「立ち直ってなんていないさ。まだ何も整理されてない」
「けど、もう立つぐらいは出来る……」
「そして、藍」
「俺が歩けなくなったら、やはりお前に支えてもらうよ」
「俺はさ。もう一人で歩く自信がなくなっちまった」
「ああ」
「だから、藍……俺の側にいてくれ……この夏目の屋敷で共に……」
「ああ、分かっているさ」
「藍がそういう時だって、俺は支えるからさ……」
――V 直哉 藍

 ここで疑われていないものは、直哉自身だけではなく他者である藍も含まれている。そうして自己の痛みだけではなく他者の痛みをも確かなものとして受け入れることによって、直哉はようやく大地に立つことができている。そして夢を失った直哉は藍の痛みが事実としてそこにあることを認めるだけではなく、その痛みに生の意義があることを認めることによってこれから築いていく永遠の相の門口に立つのである。

5.12 大地

 夢を失ったのは直哉だけではない。稟もまた圭の死をきっかけにして憧れていた直哉と過ごす日々を失っている。その二人の夢が失われたことを象徴的に表していたのが、ムーア公募に直哉が出品した作品である。

「『蝶を夢む』……」
「海を渡る無数の蝶。無限とも思える蝶。空を埋め尽くさんと……」
「そこには大地がない。あるのは、どこまでも続く透き通った美しい奈落」
「でも、それは夢。その風景は夢」
「にもかかわらず。世界は、そんな夢の様な瞬間に、簡単にすり替わる」
「大地は、海に、海は、大地に」
「奈落とは、この足が立つ大地の事」
「奈落とは、夢の続きではない」
「無限の蝶が埋め尽くす空の下は、奈落。だけど、違う、それは私達が立つ、この大地」
――V 稟

 蝶は夢の隠喩である。それまでの日常は、直哉の夢と記憶を失ったまま直哉との再会を願った稟の夢の上に成り立っていたが、しかしそれも圭の死によって失墜し、それとともに夢の象徴であった蝶は奈落の海に呑みこまれる。しかしこの作品から読み取れる解釈はそれだけではない。ここで言われている比喩を大雑把に当てはめれば、「蝶」は意義であり「大地」が意味である。そうだとすればここでもやはり、確かにここにある事実というものが確認されている。ふつう人は自分が「大地に立っている」ことを確認したりはしない。それをあえて言葉にする。そうすることで大地があること、そしてそこに立つ自分もまた存在するという事実を確認する。自分が存在しているという確かな前提が無ければ、人は話すことも、歩くこともできない。だからここで再度、足場を確認してそれを確かな事実とすることではじめて、この先の議論が展開され得る。しかしそれは夢を失った直哉にだけ必要だった確認ではない。直哉はすでに藍と支え合うことで立つための大地を得ている。だからここで確認が必要とされているのは稟のほうである。稟もまた、これから目指すことになる「独立して存在する美」のために、自分の身体と心が確かな事実に立脚していることを確認し、それを出発点としている。しかしそこには直哉のように自己の痛みを共有できる他者はいない。夢から覚めた時、直哉には藍がそばにいたが稟のそばには誰もおらず、取り戻した記憶から生じる罪の意識や自己否定の痛みをすべて一人で受け入れている。それは汚さも醜さもすべて愛する神の態度であると言える。そう考えれば上記の引用部から続く稟の言葉が、自らの痛みを美しい意義として昇華していることが認められるだろう。

「だから、踏みしめた、大地は、夢の音を奏でる」
「夢の音……。それは美しい音色か?」
「うん、そして、それはとても残酷な音色。そうでなければ、それは美しくなどない……」
――V 稟 直哉

 美しい音色は意義の始まりを表す。稟の美の真理への旅路はここから始まっている。それは直哉の永遠の相とは違い、他者を必要とはしないものとされている。しかし事実は違う。たしかに稟が信じている美の真理は完全なものかもしれないが、稟に宿っている神は完全なものではない。それに彼女の芸術は、美の真理の表現ではなく他の目的に向けられている。それは上記の引用からさらに続く言葉に仄めかされている。

「なおくん……私さ。私、私は、もう振り向けない……。そんな時間すらないんだ……」
「ああ、旅立つのだろ……世界に」
「ううん。そうじゃない。そうじゃないんだよ……」
「だったら?」
「違うんだよ……。本当は……。それでも、私は行かないといけないんだ……」
――V 稟 直哉

 稟に宿っている神の愛が永遠のものであれば、この場面でなにかを言いよどんだり、6年前の火災事故の時にも取り乱した態度を取ることもなく超然としていられたはずである。そうすることができないということは、やはり稟の神もまた完全ではないと言えそうである。では彼女がこの先の議論の結論部で示す「美は美として独立して存在する」とはどういうことなのか。美は彼女の頭のなかにすべて収まっているのだろうか。そして稟の本当の目的とは何だろうか。それらの疑問に答えるために、唯美主義から始まる二人の対話を追って点検していく。

5.2

You dropped an amber thread―

5.21 唯美主義

「自然は芸術を模倣する」というワイルドの引用から始まる唯美主義についての議論の要点は次のとおりである。

 美は頭のなかにあってそれを自然に与えているのか。それとも美は自然のなかにあってそれを与えられているのか。

 この二つの考え方は、先にも言ったワイルドの「自然は芸術を模倣する」とアリストテレスの「芸術は自然を模倣する」という二つの対立する立場にも表れている。そして以下の引用部の、芸術の歴史における二つの側面にも対応する。

「実際、芸術の歴史とは、自然をどう解釈するか、の歴史と言っても差し支えありません」
「ただし、こう言い換えたら、それも怪しくなる」
「芸術の歴史とは、自然が自分からどう見えるのか、を解釈する歴史である」
「こう言い換えた時に、アリストテレスの言葉に亀裂が走る」
「その亀裂こそが、唯美主義なのだと思う」
――V 稟 直哉

 人は自然そのものを見ることはできず表象を見ることしかできない、あるいは自然を解釈することしかできない、というような考え方は古来のギリシャ哲学にもすでに見られ、それは本稿の冒頭でも示した「世界そのもの」と「経験され得るもの」を区別する考え方である。それにしたがえば、自然を見ながら描かれた作品は自然の模倣であるという考え方も至極当然のもののように思える。しかしその見えている風景は与えられているのではなく人が美を与えることによって見える風景である、としたのが唯美主義の立場である。その象徴的な存在であるワイルドが言う「そのものの美しさを認めた時、はじめて"もの"は実在するのである」というのは余りに極端な言い方だが、しかし人がものを見て美を感じたとき、それが自らの意志によって与えたものであるというのは経験的に実感できそうなものではある。たとえば生きる意志によって世界を満たそうというのも美を与える態度であるし、一生に一人の異性だけを愛そうというのも自らの強い信念から生じた価値観だと言える。すばひびで示された美しい旋律と美しい言葉が同じ大きさであるというのも自らの意志と論理によって導いた帰結であったはずである。しかしそれらの価値は本当に与えるだけのものなのだろうか。直哉はワイルドの言質を一面では正しいが一面では間違っていると言う。そして美は頭のなかにあるものを与えているだけではなく、ましてや自然と接触する以前から頭のなかに収まっているものでもなく、それは自然からも与えられているものだとして、その二つの対立する立場が実は同じものであることを示唆する。

5.22 心と自然

 すばひびでは心と世界が同じ大きさであることが示されたが、しかしその心にある美や意志といったものがどこから生じているものなのかは問題にはされていなかった。なぜなら生の意義に満たされた世界というのはそれだけで完全に閉じたまま静止しているからである。その状態からは与えることも与えられることもない。それはどんな痛みにも動ずることのない神の意志である。それは美しい旋律と美しい言葉と等しい重さを持つものである。しかしそれははじめから頭のなかに鳴り響いていた音色だろうか。稟がこの世に生を受けたとき、彼女の心は美に満たされていただろうか。そうであったとしても、その後に彼女が母親と接触し、父親と接触し、そのほかの人々と出会い、歩き方やものとの関わり方を発見していったのは、やはり頭のなかだけの出来事ではないと考えるのが普通である。なぜなら稟がすべての価値を自明であるというなら、I章において彼女がブランコを漕げなかったことの説明ができないからである。誰かが漕いでいるのを見て、それを頭のなかで思い描いてみても稟はブランコを漕ぐことができなかった。それは稟が空中を蹴ってもブランコが動かないと信じていたから、つまり「ブランコは静止しているものである」という価値しか知らなかったからである。ブランコの漕ぎ方は頭で理解するものではなく行為によってしか理解することができない。だから直哉に何も考えずに身体を動かすことを教えられ、実際にその通りに身体を動かすことで稟は「ブランコはこのようにして漕ぐものである」という頭のなかには存在しなかった意義を自然との関わりのなかで発見するのである。そしてそれはすばひびの終盤で示された皆守の善き意志に基づく行為との類似を見せる。

 空では人は無力だ。
 だからこそ身体は知っている。
 そこで何をすべきか。
「そこだ! そこで思いっきり宙を蹴るんだ!」
――I 直哉

 自由落下……重力という運命により、俺たちは地面に吸い込まれる……。
 空を飛ぶことが出来ない人間は、
 空の上から地に落ちる事しか出来ない。
 でも、俺は認めない。
 絶望なんてここには無い。
 あるべきはすべき事だけ、
 この瞬間にすべき事だけ、
 今を生き。
 そして明日を生きるためにすべき事だけ、
――『素晴らしき日々』JabberwockyII 皆守

 ここでは行為における善悪が示されている。引用にある「すべき」というのは倫理についての言及である。ここに善き意志と行為の一致を見て取ることができる。稟の超越した神のような行為に対する消極さはそこにはなく、行為によって意義を発見すること、空では人は無力であると知りながらも身体を動かすことによって運命が変え得ることを発見し得ることが示されている。そのようにして人は行為によって自然と関わり、価値を与え、そして与えられる。善き意志に基づいた行為によって発見されたならば、その価値は例外なく善いものであり美であると言える。それは心と自然が相互に循環するなかで絶えず生成され続ける。そこには原因と結果という明確な線引きは存在しない。行為によって関わる世界には流動し続ける過程のみが存在する。ブランコを漕いでいるときにも夜の底は冷えていくし、屋上から落ちている間にも月はすこしずつ傾いていく。だから心が先に価値を与えたのか、それとも自然から先に価値を与えられたのかという因果関係の問題は生じ得ない。問題が生じ得ないのはすばひびの静止した世界でも同じことなのだが、しかし「循環している」という点において二つの世界観は決定的に異なると言ってもいい。そして以下の引用では、日常におけるありふれた行為や見慣れた風景も変わらないものではなく変わっていくものであり、その過程においても心と自然が同じ大きさのものであることが語られる。

「それは当たり前で、俺達が日々見ている見慣れた風景というのは、いつでも過去と現在と未来を含んでいる」
「それは時間的に推移するあらゆる事象……過程の集まり……」
「そんなものが静的なわけないんだよ。世界は動的だ」
「切り取った瞬間は世界じゃない」
「だから、俺達は普通に歩く事が出来る」
「話す事が出来る」
「絵を描こうと思える」
「キャンバスの前に立つ。そして筆を持ち、絵の具を溶かし、そして、動的な世界から、瞬間を切り取る事が出来る」
「それは、猫が横を発見した様に、俺達も、いろいろ発見するからなんだ。あらゆる自然の中に、与える物、提供する物、を発見する」
「それはもちろん、良いものだけじゃない。横に転がった棒なんて、ぶつかったら痛いしな」
「けど、そういう性質を世界と私の中で発見してゆく」
「そして、世界と私は循環するんだ」
「自然と心は別々じゃない。等しく私を構成する要素だ」
――V 直哉

 稟が考えているような美というのはここに含まれていないようにも思えるし、人が「美」という言葉で思い浮かべるようなイメージとは異なるようにも思えるが、しかし直哉が言う美や価値には「棒にぶつかったら痛い」という感覚の発見や「絵を描きたい」という感情の表出までもが含まれている。それは「生きる意志」や「神の愛」といった唯一のものによって構成されているのではなく、人が生きていく過程のなかで発見していくあらゆる要素によって構成されている。直哉はその一つ一つを「美」と称するのである。これは美の定義としては極めて広義のものであり、人が経験できるものはほとんどなんでも美であるとしている。それにしたがえば稟の美も同じように、頭のなかにはじめから綺麗に収まっていたものではなく、出会いと関わりによって発見されていくものだと言えるのである。
 この話の後に、美は人が発見するから存在するという直哉にたいして、稟は知覚されない独立して存在する美を提示するのだが、話の順番を入れ替えて、まず直哉の美が弱い神と称されることと、それが『春と修羅』序に記された思想と同じようなものであることを確認する。

5.23 弱い神

 神と美はひとつである。そして、倫理と美はひとつである。だから人が経験し得るもののすべてに価値を発見できるというのなら、そのすべてには美が宿り、神が宿る。その神は、人の心と自然の関わりのなかではじめて発見されるものである。。稟はそれを弱い神さまと称する。

「人が作ったものなら、それは完璧じゃない。美に完璧は無く、人々の想いによって虚ろに変化する」
「人の美に一貫性は存在しない」
「弱い神さまだね」
――V 直哉 稟

 そしてそれが宮沢賢治の『春と修羅』序の一節に表された汎神論的な思想と似ていることを指摘する。

「それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
 ある程度まではみんなに共通いたします」
「(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
  みんなのおのおののなかのすべてですから)」
「まるで春と修羅だね」
「ああ、そうだな……。春と修羅みたいだ」
「…………………………………………………」
 稟が何かをつぶやいた。
――V 稟 直哉

 私とみんなが同じ大きさを持つ、というのは今まで繰り返し示してきたとおりである。そして人が見出した神は儚く、一瞬のうちに消え去っていくものだが、それでも人が信じた時にその弱き神はそばにある。直哉が考える美とはそういうものである。
 そしてここで問題になるのが稟がつぶやいた言葉である。上の引用にある点線部は、文字列だけでは読み取れないが、声を聞きとればなにをつぶやいたのかは容易に分かる。稟はこう言っている。

「本当は私だってそうなんだけど」

 これはつまり稟もまた直哉と同じ美を信じていることを表している、とは一概には言えない。たしかにその言葉を額面通りに受け取れば、稟は弱い神を信じていると解釈できそうである。それはブランコの例からも十分に考えられることではある。しかしそうであるならば、稟が「美は美として独立して存在する」ということも信じている事は説明しきれない。それは人に発見される以前から存在しているために、直哉の美とは相容れないもののはずである。にもかかわらず、稟は人と共にある美を信じ、かつ美が独立していることも信じている。これは矛盾していることだろうか。それを確かめるために、数学の話から始まる独立する美に関する稟の議論を見てみよう。

5.24 強い神

 数学に関する議論は古代人の目盛りの発明から、数学者たちが発見よりも先に数学的証明を成しえてきたこと、それから数学が神学や芸術などに応用されてきたことが語られるが、それらは省略して結論部だけを引用する。

「人がいなくても数学の真理は存在する」
「そうではありませんか?」
「それとも人がいない場所だと、数学的な真理は変化するのでしょうか?」
「いや、違う……人が消滅したからといって、数学的真理が失われるわけではないだろう……」
「数学的真理とは、人の心と無関係に存在するのかもしれない……」
――V 稟 直哉

 そして稟は数学の真理と同様に、美の真理もまた独立して存在すると結論付ける。

「人がいなくても美の真理は存在する」
「美は美として独立して存在する」
――V 稟

 ここで言われている美の真理は、どこに存在しているのかということが問われていない。ここまでの文脈の印象からすれば、「美の真理は稟に宿っている」と単純に思ってしまいがちである。それは以下の引用にあるような直哉の発言を見直してみても誤解されやすいような言い方がされているからだが、しかし美の真理としての神と、それを信じる稟の心としての神は区別されなければならない。

「だから、稟の美には観客は必要がなかった……」

「稟の神は、超然だ。その絶対的な神のための美。そういったものを人は形にする」
「古くから西洋……いや、元々原始宗教美術が持っていた性格だ」
「だったら、ワイルド的に言えば稟が言う美とはこういう事だ」
「人は美を、あるいは、神を模倣する」

 あいつは、自分が信じる美ではなくて、それを神の美だと言っていたよ。
――V 直哉

 直哉が「稟の美」や「稟の神」と言う場合、それは稟のなかに宿っているものを指しているのではない。美が独立して存在する以上は、人である稟がいなくてもそれは存在しているはずである。美の真理は稟に宿る以前から存在しているし、稟が死んでも変わらずに存在し続けるものである。それは、それこそ数学の真理のように現実の世界となんらの関わりを持たずに独立して存在するものである。それは発見できないものなのだから、神を宿す稟でも見ることはできない。それはただ信じることしかできない対象である。20世紀最大の知性と称されたとある数学者が、神秘に魅せられながらも最期までその存在を数学的に証明できなかったように、美の真理もまたあらゆる芸術表現をもってしても完成を見ることはできない存在である。美のイデアと呼ばれるものは古代ギリシャ哲学から現代にいたるまで、多くの哲学者や芸術家がその実在を信じ、その存在証明のために命を懸け、時に人生を狂わされてきたのだが、いまだにそれは発明も、発見も、証明もされていない。それは稟も同じことで、それは一生涯を賭けて芸術に向き合ったとしても、到底表現し切れるようなものではないのである。そもそも「美は美として独立して存在する」ということを芸術によって表現することは可能なのかどうかすら分からない。しかし美に魅せられたものはその実在を確信する。確信しているからこそ憑りつかれたように真理を求め続け、そして筆をとる。稟が神を信じるとは、永遠の実在を信じることであり、必然の価値を信じることである。それを信じる心は、強い神と称される。

「神を宿したと言ってるんだ、だったら外に作品を作る意味は無い」
「どちらにしても、自分の中に神を感じ、そしてそれはいかなるものよりも価値があると思うのであれば、それは強い神だ」
――A Nice Derangement of Epitaphs 健一郎

 稟に宿っている神と、それを信じる心である強い神は別のものである。強い神は完璧ではないがゆえに自然と関わりを持つ。稟が「本当は私だってそうなんだけど」とつぶやいて直哉の弱い神の思想との類似を仄めかしたのは、強い神もまた行為を通じて自然のなかに美を発見していく存在だからである。そしてその「自然」をより限定した形で言えば、「絵画」である。稟は絵を描くという行為を通じて絵画のなかにさまざまな性質を発見していく。そしてそれだけでなく、美の真理に近い性質をも発見していく。直哉が言ったように、それらは静止した関係ではない。心と絵画は円環の関係にある。そしてその行為には強い神が宿り、行為の背景そのものには神が宿る。稟が外に作品を作るのは、そうすることでしか美の真理に近づくことができないからである。絵画との循環のなかで強い神はより完全な形へと近づいていく。そしていつかその神を発見し、それを作品として表現することが美に呪われた者としての全霊を賭けた仕事であると言えるだろう。しかしそれは決して叶わないことなのである。

5.3

And now you 've littered all the East

5.31 稟

 ここまでの議論の点検によって、美は独立して存在すること、その神がはじめから頭のなかに収まっているものではないこと、それは稟によってまだ発見も表現もされていないこと、美の真理としての神を信じる心を強い神と称すること、絵を描くという行為は自然との関係にあることが確認できたと思う。しかし稟と直哉の議論に入る前に挙げた「稟の本当の目的は何か」という問題はまだ解決されていない。稟が世界に旅立たなければならない理由、それは結論から先に言ってしまえば「直哉と因果交流をするため」という一言に尽きる。そのために稟は9年後のVI章までずっと絵を描き続け、そしてその後も描き続けるのである。ではその根拠とはなにか、を確認するためにまずは稟の幼少期の一場面から見ていく。

5.32 因果交流

 以下の引用は、まだ幼いころの稟と雫が桜の咲く伯奇神社の境内でアルバムを見ながら直哉について話している場面である。

「どんな絵描くんだろう。いつか一緒に絵描きたいなとか思ってるんだよ」
「いつか? 今じゃだめなの?」
「うん、私が圧倒的な力を得るまではだめだと思う。たぶん、呑み込まれちゃうよ」
(中略)
「この桜……、私には、まるでいろいろな感情が電灯の様に光って見える……。そしてそれぞれの光りが重なって因果交流の光りとして世界を作り出している様に思えるんだ……」
「なおくんは、そういった因果交流でひときわ輝く存在。そこが私と違う……。だから、いつか、私は、私の絵となおくんの絵が交流し、その因果で世界を映し出せたら良いと思っている。だから、まだ早いんだよ……」
――A Nice Derangement of Epitaphs 稟 雫

 因果交流とは原因と結果というように線引きできる関係ではない。それは推移していく過程における自己と他者の循環する関係である。稟は強い神によって唯一の神を信じるだけでなく、見るという行為を通じて風景やものに他者の心を読み取り、それに色彩を与えることができる。見るという行為の過程に明確な線引きはなく、同時間的に美が生まれては消えてゆく。そういった儚いものにたいしても美を見出し、そして桜のように咲いては散ってゆく直哉の在り方を美として見られるということは、やはり稟は唯一の神だけを信じているわけではないことが分かる。しかし二人の美への向き合い方は同じではなく、直哉が人々との交流のなかでひときわ輝くのにたいして、稟はあくまで「見る」という行為や「絵を描く」という行為にとどまることでより多くの美を見つけているようである。それらは発見し得る限りの美の両極にある態度だと言えるかもしれない。そして稟の夢は直哉の絵との交流、あるいは共作によって交流することであり、そのためにはより圧倒的な力を得なければならないと語っている。この場面から数年後に火災事故が起きて稟は記憶を失うのだが、圭の死をきっかけに記憶を取り戻したあとにもその願いが残されているだろうことは、以下の引用から推測できる。

「ツバメはさ……、ただ王子のそばにいたかっただけなんだよ……」
「ツバメ?」
「うん、でも、その王子のそばにいるのは、すごく大変なの……誰よりも高く、何よりも高く飛ばないと……王子のそばにはいられない……」
――V 稟

「なおくんには分からないから、だから圭くんは、あれだけの作品を作りあげなければならなかった。私には、彼の気持ちが良くわかる……。ツバメが愛したものが、銅像だったら、どれだけ良かったのだろう……。そうすれば、寒さの中で一緒にいる事が出来た……。たとえ、その先に死があったとしても……。寒さは身を凍らせるかもしれないけど、一緒にいられれば、それだけで温かい……。ツバメが南の空に旅立つ理由なんてないんだよ……」
――V 稟

 ツバメは圭を表し、王子は直哉を表している。そして稟が「彼の気持ちが良くわかる」と言っていることからツバメが稟自身を指している寓意であると解釈することもできるだろう。稟は己に宿る美だけではなく、直哉も愛している。しかし彼は右腕の力を失っても、圭に支えられていた夢を失っても、なおも人々の関わりのなかでよりいっそう輝いていく。それは稟の才能が呑み込まれるほどのものとされる。だから一緒にいるためには世界へと旅立ち、研鑚を積むことでより圧倒的な力を身につけなければならない。そして直哉のもとを離れてから9年が経ったあとでも、稟は直哉のことを意識し続けている。

「あれから何年経ったかな……」
「まだ、なおくんの中で炎は燃え続けている……」
「だから、私は行かなければならない……」
「私では行けない場所……、約束された地点……」
――VI 稟

 稟の言う「あれから」とはおそらくV章の直哉と吹のお絵描き対決のことを指していると考えられる。稟が生涯のなかで絵によって直哉と交流したのは『櫻達の足跡』を作っていたときとお絵描き対決のときだけである。とりわけ印象に残っているのは後者の共作であろう。なぜならみんなで楽しく作っていた『櫻達の足跡』よりも、本気の力を尽くして共作していた水彩画の作品のほうがより幼少期の稟の願望に近いからである。

「楽しいです! 楽しいですね! 絵というのは楽しいです! こんな事があるのですからね!」
 楽しいか……。  いや、俺はそれよりもつらさの方が大きい様な気もする……。
 だが、それでもやはり……。
「楽しいな」
「はい!」
――V 吹 直哉

 吹の描いた水彩画に直哉が点描画の手法によって作品を生まれ変わらせ、それに触発された吹がさらに独創的な作風で描いていく。作品の意味と意義が作者と絵画の一対一の対応のなかで循環するのではなく、直哉との交流を介することによってより多くの美の発見に結びついていく。そしてここではとりわけ、「楽しい」という感情が美として発見されている。それは独立して存在する美を追い求めているだけでは見つけられないものである。共作の楽しさは、共作をすることによってしか発見されない。吹はそのような一人では成し得ない美を直哉との共作を通じて発見しているのである。だからその記憶を受け継いでいる稟はそれを糧として、幼少期からの夢を実現するための技術を身につけるために世界へと旅立つのである。

5.33 櫻の森の上を舞う

 本作品の副題であるこの言葉は、IV章が始まる前の直哉の稟の夢によって成立していた永遠に覚めない夢のような日常を示すものだと解釈する向きもあるが、より主題に関連付けるならば、「稟が絵を描くこと」を示すものとして解釈するのが妥当だろう。「櫻の森」とは、幼少期の稟の視覚体験を介すれば、人々の感情の交差が織り成して作り出された世界を表していると言える。感情が光として捉えられるのは、それが美を感じている人々の瞬間を表しているからである。その「上を舞う」のは蝶である。直哉の作品『蝶を夢む』で示された海を渡る無数の蝶の群れは世界へと旅立つ稟を象徴するものでもあった。美の真理を追い求める稟は強い神とともに絵を描き続ける。だが神を宿した稟でも真理に達することは容易ではない。しかし美に呪われた者であるがために、そしていつか直哉と交流したいがために、稟は絵を描き続ける。より広く解釈すれば「上を舞う」とは「真理を求める行為」全般の事であると考えることもできる。有史以来、多くの天才たちが無限に魅せられ、それを目指して羽ばたき、そして手が届くことなく虚無へと消えた。ボルツァーノカントール、ツェルメロ、ゲーデル。彼ら天才数学者は無限の実在を信じながらもそれを証明することができぬままにこの世を去った。彼らのような真理に魅せられた者は数学だけではなく、天文学幾何学、芸術などの様々な分野でも見受けられる。多くの天才が神の実在を証明しようとしてきたが、それが実現したことは一度もない。稟は約束された地点を「私では行けない場所」であるとしていた。それもまた過去の天才たちと同様に証明も発見も表現もできないことを意味しているのだとしたら、では下記の直哉の言葉はいったい誰を示す言葉なのだろうか。

「天才が0.9なんだよ」
「天才といえども、ただ存在しただけでは、1にはなり得ない」
「天才の無限とも思われる試行錯誤」
「凡人では計り知れぬ、苦悩と恍惚」
「無限に流れ込む感情」
「試行錯誤」
「それらが0.9を0.999……に変える」
「無限の果てに成り立った、たった一つのもの」
「世界で一つという意味での1なんだよ」
「天才を持ってしても、1にいたるというのは並大抵の事でない」
――VI 直哉

 稟が唯一のものに辿り着けないのだとしたら、彼女はただ空を舞い続けるだけで永遠に留まることはできないのだろう。それでも永遠を追い続け、それ以外のものを信じることができないのなら、彼女には永遠も、永遠の相もあり得ない。ならばここで直哉の言う「並大抵の事でない」というたった一つのものに至るわずかな可能性を示唆する言葉は誰に値するものなのだろう。ディキンソンの詩『I dwell in Possibility』の最後の一節、「この小さい手をいっぱい広げて天国をつかむこと」とは文字通り、たったひとつの永遠を掴むことを示している。それは誰にふさわしい言葉なのだろう。

5.4

With duds of emerald!

5.41 意味と意義の再考

 直哉が永遠の相に至るためには意味と意義が不可分であるものとされなければならない。なぜならここで言われる「永遠」とは、時間が永久に続くことではなく、唯一の正しいものを表しているからである。世界でただひとつのものであるならば、それは意味であり意義であるものでなければならない。その二つが違うものであれば「世界そのもの」と「経験されたもの」が別々に存在することになり、ただひとつのものとしての永遠の相は成り立たない。しかし本稿の冒頭でも区別したように、人は意味そのものを経験することはできず、意義を経験することしかできないはずである。人は世界そのものを見ることはできないし、記述することも証明することもできない。ならば、本当に「意味と意義はひとつである」とすることは可能なのだろうか。

5.42 痛みはひとつ

「世界はどんなに悲しい瞬間でも美しく、どんな幸福な瞬間でも醜い。だから俺たちが生きる世界には、意味と意義がある」そう直哉が桜を見上げながら独白したのはV章の最後の場面である。当時はまだ意味と意義は区別して考えられていたようだが、9年の歳月が流れたVI章の舞台で、居酒屋から帰った彼は悪酔いするなかでふたたび意味と意義について語る。それは藍に膝枕で介抱されている場面である。しかしその場面では直接に「意味」と「意義」という言葉は使われていない。それでもそこで直哉が藍に語り聞かせたのは、意味と意義をひとつのものとして受け入れなければならないという意志表明なのである。
 ここからは分かりやすくするために意味を「事実」、意義を「価値」と呼ぶことにする。私が大地に立っていることは疑い得ない事実であり、残酷な音色や美しい音色が聞こえたならばそれは価値である。

「どうした、直哉、つらそうだけど、嫌な事でもあったのか?」
――VI 藍

 藍のこの問いかけから直哉の事実と価値を同じものとして受け入れていくための言明が始まる。「つらい」と言われているのは事実である。それ自体はたったひとつのものでしかない。それでも人はそれを「良い事」と「嫌な事」に区別して捉える。多くの人がつらい事実を嫌な事として評価するが、直哉はそれを良い事として評価する。

「何故だ? 良い事ばかりなら、人はつらくなんかならないだろう?それでも直哉はつらいのか?」

「良い事」という価値に満たされていても、「つらい」という事実は変わらない。ここにある痛みはなくならない。

「一番うまくいってる時に、一番ダメなのか? それは不思議だな。なんで、一番うまくやっているのに、一番ダメなんだ?」

 一番うまくいっている時、それがありふれた風景として、ごく普通の日常としてそこにある。それは奇蹟のような事実なのに、人はそれを価値あるものとして見ることができない。普通ではないのに、普通のものとしてしか見ることができない。「きらきら」している事実に気づくことができない。

「今、うまくいっているから。輝いてるからこそ。直哉はつらいのか?」
「違う、そうじゃないんだ……」

「きらきら」している事実も「つらい」という事実も、ここにあるのはたったひとつの事実である。どちらかを原因として導かれた結果がここにあるのではない。

「直哉は、今が最悪だと思っているから、そんなに荒れているのか?」
「そうさ……でもさ、人間はさ。俺たちはさ」

 つらい事実を良い事として評価することだけが正しいのではない。つらい事実にたいして多くの人がするように、「最悪」という評価を下すことを直哉は許している。

「うまくいってないのに、一番ダメなのに、一番生きているのか?」
「いいや、言い方がまずいな。それだと……」

 生きているという事実にうまくいっているか否かという区別はない。うまくいっていないこともダメなことも、等しく生きているというひとつの事実である。

「イケてるから苦しむのか……逆説的だな」
「ああ、逆説的だ。全然あべこべだ。最高は最悪で、最悪は最高」

 ここに価値の両極を表す「最悪」と「最高」の二文法は統一される。良い事と悪い事、美しさと醜さ、楽しみと悲しみといった直哉の身近にある対立する概念がひとつのものとして受け入れられる。

「何も感じる事が出来ないなら」
「生きているのか死んでいるのかわからない」

 生と価値は不可分である。価値が感じられないのなら、苦しみを感じることも痛みを感じることもなければ、生きている事実すら不確かなものになる。

「身体の痛みを受け入れろよ」
「それが生きるって事だ」

 身体の痛みは事実であり、そして価値でもある。「痛み」という言葉は概念や現象を指し示すものではなく、事実と価値が分かちがたく結びついたものとしてここにある。そしてここにある痛みは、幸福と不幸というおおよそ抽象的な概念とも結びつく。

「不幸なんて苦痛は、幸福と背中合わせでしかない」
「不幸もまた、幸福の変わった風景でしかない」

 ここでもまた価値の二文法が示されているのみであり、それらは見方によって変わる痛みの様相でしかない。幸福を力強く肯定することもないし、不幸な世界と幸福な世界を別のものとして扱うこともない。だから不幸も幸福もここにある痛みとひとつなのである。
 ここまでの事実と価値を統一するための言明は、ただそれを言葉にしただけで成し得るものではない。直哉が悪酔いしていて最悪な気分でいること、他人からすればどうでもいいような人生を歩んできたこと、「鬱になって、酒飲んで、ゲロ吐いて、血吐いて」を今まで何度も繰り返してきたこと、その他多くの経験があるからこそ、直哉の言葉は頭のなかだけに留まる薄い概念ではなく、身体の痛みとともにある生きた概念として了解されるのである。そして事実と価値は直哉個人のなかで統一されるだけにとどまらず、弱い神を通じて他者の痛みをもひとつのものとすることができる可能性が示される。

「弱い神は、かよわき人々の美の中にいる」
「だから、そのかよわき神には意義がある」

 直哉のそばには弱い神がある。そしてその神が人々の信じる心のなかにあるならば、直哉はその神を人々と共有できるはずである。神は美とひとつであり、痛みとひとつである。だから直哉が人々とともにある神を信じることは、人々の痛みを感じることでもある。直哉が弱い神を信じ、そして他者と関わり続けるかぎり、それは共有され得るもの、または共有されるべきものとして模索されていくだろう。そしてその無限とも思える模索の過程において、すべてがひとつになる瞬間、永遠の相が実現する瞬間がどこかにある。しかしそれを成すのは並大抵の事ではない。自己と他者の共有された事実と価値を世界でたったひとつのものとして捉えることなど不可能なことのように思える。しかしそれは、直哉なら不可能なことではないのだ。

5.43 櫻の森の下を歩む

 花弁は一枚でも美しい。けれども、やはり数多くの花びらに囲まれた方がより美しい。
 人々の因果的交流灯。
 数え切れない人々の因果が光りを灯す。
――VI

 櫻の森には無数の櫻の花弁が舞っている。それら人々のあらゆる感情、痛み、美、幸福は相互の関わりのなかでよりいっそう美しいものとして捉えられる。そして人々だけではなく、弓張の街にある家々や夢浮坂の階段、空と海の境界線、つぼみが芽吹く桜の木、それらを直哉は日々の積み重ねのなかで何度となく経験してきた。そしてそこに変わらないもの、変わっていくのに変わらないものをひとつひとつ見つけてきた。それらを美として発見するということは、価値と結びついた事実として世界を捉えることである。しかしそれらはずっとひとつのものとして存在しているのではなく、絶えず流動する過程のなかで生成と消滅を繰り返しているものである。だからすべてがひとつになる瞬間は、その通り瞬間の出来事であり、その瞬間においてのみ、永遠の相は形を成すのである。

 その時、かすかに櫻の詩サクラノ詩が聞こえた。

 この物語を締める最後の一文は直哉と弓張の街にあるあらゆる事実と価値がひとつに結びついた瞬間を示しているのであり、その瞬間より先には存在しない世界でただひとつの瞬間である。しかし直哉が藍とつないだ手がここにあるという事実は変わらない。夏目の家に帰るために歩いていけば風景は変わっていくが、しかし手をつないでいるという事実と価値は藍と共有されそのまま変わることがない。夏目の家に着いて手を放したのだとしても、長年住みついた家とともに過ごす時間は、直哉と藍に変わらないものを多く与えるだろう。藍が言う「家族になる」ということは、二人でひとつになることを示している。

6 伝えたいこと、たったひとつ

6.01 事実と物語はひとつである

6.1
And still she plies her spotted brooms,

6.11 物語には無限の価値が内在する

「描けないなんて事はない……」
「右手が無くても、作品を公表出来るレベルじゃなくても……絵は描き続けられる……」

 夢を失っても作ることはできる。作る意味は夢の延長ではなく、生活とともにある。作れるか否かは誰かが決めることでも自分で決めることでもない。作る者にはすべきことしかない。

「日々の鍛錬って言うのもバカにはならないもんだ」
「それがどんなつまらない場面だとしても、役に立つならば捨てたもんじゃない」
「俺は、俺の右腕を鍛錬してた事を誇りに思うさ」
「才能は凡人を裏切る。だが、技術は凡人を裏切らない」
「お前の言葉だ」
「技術は鍛錬の上に成り立つ」
「たしかに、技術は裏切らない。まぁ、殴る技術なんてものを鍛錬してたわけじゃないけどな」
「でも、鍛えた技術っていうのは良いもんだ」

 鍛錬を積むことや練習を続けることもまた生活における作る意味の実践である。天啓とは何の脈絡もなく降りてくるものではなく日々の試行錯誤のなかから生じるものである。

「芸術家になる事だけが、芸術的生き方ではない」
「いや、芸術なんて、曖昧模糊とした言い方が気にくわない」
「表現とは、作品を作る事だけではない。作品は、何の文脈も無く、突然、世界に出現するわけじゃないのだから」
「その意味と意義を捕まえる事だって、作品を生み出すことに負けないぐらい重要だ」

 作ることと価値は切り離すことはできない。自らの意志から独立した作品を作ろうとしても、そこには必ず価値が介在する。
 意味と意義がひとつであるならば作る行為と作品の価値もまたひとつである。しかしそれは常に同じであるわけではない。作者と作品の関係は絶えず循環し、それに伴い作者が自作に見出す価値は絶えず明滅する。

「たしかに、あなたは才能では語れない芸術家です」
「皆さんの前では一切筆をとらず。にも関わらず、誰かのためであるならば、自分の名が残らないとしても、作品を作り上げようとする」

 多くの場合、作ることに才能の有無は関係がなく、作品は日々の積み重ねのなかで切り取られた瞬間の表出である。
 天才とは、人格が立ち現れている才能の事である。
 天才にとっての才能とは生き方そのものの事である。

「なにも、描くのは右手だけじゃない……」
「右腕が絵画を生み出すわけじゃない」
「才能が作品を生み出すわけじゃない」
「描きたい、そういう信念が作品を生み出すんだ」
「だからさ、俺はいつだって、また描き始めるさ」
「誰かのためじゃない……。他ならぬ、自分のためにさ」

 誰かのために作ることが才能であるならば、自分のために作るのもまた才能であり、生き方であると言える。誰かのために作ることは純然たる奉仕ではなく、自分のために作ることと同義である。
 作りたい、という信念は生活のなかに見出されなければならない。


6.2
And still the aprons fly,

6.21 物語は実在する

「芸術作品は永遠の相のもとに見られた対象である。そしてよい生とは永遠の相のもとに見られた世界である。ここに芸術と倫理の関係がある」

 永遠の相のもとに見られた世界はすべてがひとつである。現実に存在している作者と虚構である自作は、長い製作期間のなかで世界をひとつのものとして共有する瞬間があり得る。「意味と意義を捕まえる」とは、作る者としての生き方を捕まえることであると言える。

「さぁ、受け取るが良い」
「この絵にやどった神は、永遠の相だ」
「この感動は一瞬だが、永遠だ」
「そして、そこに幸福がある……」

 受け手は物語によって表現された痛みを自身が経験してきた痛みによって理解する。
 受け手もまた、作者と同じように作品とひとつになれる瞬間があり得る。それはあらゆる痛みを積極的に受け入れていくことによってはじめて可能になる。
 作品それ自体に無限の価値が内在しているとすれば、受け手はそれを読み取ることも可能である。

「芸術は見られる事によって完成する」
「作品は死骸だ。ただし腐らない死骸。綺麗な標本みたいなもんだな」
「死骸は死骸。どんだけ完成度が高かろうが、死骸だ。だから世界が閉じていたら、いつまで経ってもそれは死骸だ」

 作品それ自体に価値が潜在していても、それは人に発見されなければ無意味である。はじめに作品に価値を見て取るのは作者であり、そしてその手から作品が離れたならば、その価値を決めるのは受け手である。

「だが、芸術というのは何度でも生き返る」
「標本にすぎなかった、美しい蝶を前にした時に、君が、もし、生きているかの様に錯覚し、それが飛び立つ姿を夢想したとするならば、それは屍体では無くなる」
「標本は人の中で再び“飛ぶ”権利を与えられている。だからあれは人を魅了する。芸術もまた同じだ」

 見られ続けるかぎり作品の価値は何度でも更新される。価値は人の心のなかで生まれ変わる。見たものによって生まれるからこそ、作品には意味がある。

「瞬間を閉じ込めた永遠。まぁ永遠というには作品には寿命はあるが……」
「それでも、その作品が存在するかぎり、その瞬間は永遠の中に閉じ込められている」
「時にはたった一つ、時にはもっと多くの伝えるべき想い……。まぁ、それは、その作品によりけりだ」
「多ければ良いわけでも、たった一つだからこそ素晴らしいわけでもない」
「だが、伝えたいこと、たったひとつ、瞬間を閉じ込めた永遠。なんて作品もあるもんさ……」

 サクラノ詩が聞こえるとは、事実と物語がひとつであることを見て取ることである。
 サクラノ詩が聞こえるとは、作る意味に関する問いを理解することである。
 サクラノ詩が聞こえるとは、作者と受け手が同じ世界の瞬間を見ることである。
 それを成すためには長い時間をかけてより多くの痛みを経験していかなければならない。
 そしてもしも私にそのような瞬間が訪れたならこう言えるだろう。

6.3
Till brooms fade softly into stars―


6.31 私とサクラノ詩はひとつである


7. それから私もいなくなる――
And then I come away―


I'm Nobody! Who are you?
Are you―Nobody―Too?
Then there 's a pair of us?
Don't tell! they'd advertise us―you know!

How dreary―to be―somebody!
How public―like a frog―
To tell one's name―the livelong June―
To an admiring bog!

わたしは誰でもない人! あなたは誰?
あなたも――また――誰でもない人?
それならわたし達お似合いね?
だまってて! ばれちゃうわ――いいこと!

まっぴらね――誰かである――なんてこと!
ひと騒がせね――蛙のように――
聞きほれてくれる沼地に向かって――六月じゅう――
自分の名前を唱えるなんて!










参考リンク・読書案内


 ここでは本稿を書くために参考した文献や、さらにサクラノ詩をより深く知るために参考になりそうな文献を紹介するわね! できるだけ手に入りやすい文献やオープンソースで公開されている文献を特に選んでみたから気軽に検索してみて! ネットソースの論文は査読がなかったり出典が曖昧なところが多いから内容の正否は各自で判断してね。それからすかぢがtwitterで言及していたものには行頭に○印をつけておいたわ。リンク元は訳あって省略するけど見逃してちょうだいね。て、手抜きじゃないんだから!
 それじゃあ前置きはこれくらいにしてさっそく紹介していくわね。え、私が誰か、ですって? めっ、そんなこと気にしちゃダメなんだから! いいこと? 私は誰でもない人、ノーバデーでよろしく頼むわね!

・哲学
鬼界彰夫ウィトゲンシュタインはこう考えた』
第三部の「生をめぐる思考」はウィトの神に至るまでの思考がドキュメンタリーと化していて最高にエキサイティングよ! 第四部では日常の言語行為と論理哲学の自然史的解釈を扱うのだけど、これは計算主義やプラトニズムへの批判や自然化された認識論へつながっていくわ。第五部の確実性の問題はすばひびでもおなじみの「疑われていない自己」を扱ったものよ。独我論の自然化とギブソンの知覚論、それから『春と修羅』序を結びつけて考えるためのヒントもここにあるわ。

・弱い神
office-ebara.org ギブソン生態学的視覚論(上)(下)
http://www.office-ebara.org/modules/xfsection05/article.php?articleid=51
http://www.office-ebara.org/modules/xfsection05/article.php?articleid=52
ギブソンの議論に見られる古典力学的な前提の曖昧さを指摘したあと、引用と対置するようにして視覚論の概念を説明してくれているブログよ。もっとも重要なのは変化と不変項の対比かしらね。不変項は確実性の問題と密接に関係しているわ。

堂囿俊彦『倫理的価値の普遍性と実在性―パトナム=ハーバーマス論争を手懸かりに― 』(PDF)
http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/handle/10297/8092
 事実と価値の不可分性はすばひびの思想でも示されていたけど、それを現実にある痛みと結びつけたうえでひとつとしたのがさくうたの最終章ね。パトナムは道徳と倫理、科学的な手法における倫理と生活における倫理を区別しないわ。それらを区別しているハーバーマスの議論と対比することによって両者の思想が把握しやすくなるわね。余談だけどすかぢは後期パトナムを強く支持しているそうよ。ソースは私よ。

山本一成『保育における「そこにあるもの」の価値 : アフォーダンス理論の自然実在論的解釈を通して』(PDF)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009899429
 ジェームズ、オースティン、パトナムのプラグマティズムや自然実在論を経由してギブソンアフォーダンスや直接知覚につなげてみせた論文ね。他者と事実と価値を共有できる可能性もここで示唆されているわ。

○D・カーネマン『ファスト&スロー』
 直感的思考と意識的思考の二つを対立させて、両者の役割、能力、欠点を心理学的実験によって定量的に検証した結果を楽しい具体例とともに見ていくことができる良書よ。さくうたの主題でもある「人生の積み重ね」や「誠実さ」はその時々の選択、決意、感情の積み重ねでもある。その相互循環するプロセスのなかで倫理と意志を保ち続ける直哉の奇蹟的な在り方を知るための参考になるのじゃないかしら。

下條信輔『サブリミナル・インパクト』
 19世紀末の唯美主義の思想は一度は廃れているのだけど、見るという行為についての考え方は現代の認知神経科学の研究成果に通ずるところがあるわ。本書では人が意識的に価値や美を与えているのではなく情動や潜在認知によって多くの情報を処理しているということを身近な事例とともに丁寧に説明しているわ。環境と意志の間に無意識という混沌があると、価値を与えているのかそれとも与えられているのか分からなくなるわね。

・強い神
○マリオ・リヴィオ黄金比はすべてを美しくするか?』
 黄金比や「自然科学における数学の不合理なまでの有効さ」というのは動植物や人間の発明品や芸術作品などの様々なものに見られるわ。どうしてそこまで数学が現実に対して有効なのかは誰にもわからない。だからこそ無限や数学的対象の実在は人々を魅了し続けるのだわ。稟が話した古代人の発明したカレンダーの話や吹とのお絵かき対決で使われたジョルジュ・スーラの点描画の技法の話も載っているわね。

アミール・アクゼル『「無限」に魅入られた天才数学者たち』
 実無限の研究に大いに貢献したカントールの人生を中心に、数学者たちが無限の証明に魅せられ、そしてその不可能性に狂わされてきたかを概観できるわ。素人でも呑み込めるような簡単な数式しか出てこないから気軽に読めるわね。数学はいつか完全に独立した公理系を築けると言われているけれど本当なのかしらん?

田崎晴明『数学・物理を学び楽しむために』(PDF)
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/mathbook/
 無料で公開されている数学の教科書ね。「はじめに」に書かれてある数学の物理の関係についての話を読むだけでもためになるわね。永遠の実在についてはミクロ物理の領域では否定せざるを得ないのだけど、一部の数学の公理系や生態学的物理学の「環境」という系はミクロの乱数的挙動から独立して存在し得るから、その系の限りにおいて「永遠は実在する」ということが可能になるのだわ。

ナーゲル、ニューマン『ゲーデルはなにを証明したか―数学から超数学へ』
 稟の「強い神」はゲーデルとその神秘主義を参考にして書かれていると思うわ。だから数冊紹介しておくわね。
 これはゲーデルブームの火付け役となった本ね。寄り道をせずに、完全性定理と不完全性定理について丁寧に論じられているわ。

D・ホフスタッター『ゲーデルエッシャー、バッハ』
 いわゆるポピュラーサイエンス本ね。絵画、音楽、ロボット工学、神経科学その他の分野と、ゲーデルを中心とした数学の連関を示しているわ。専門書ではないけど、多くの科学者に刺激と発想を与えた名著と言われているわ。

T・フランセーン『ゲーデルの定理――利用と誤用の不完全ガイド』
 タイトルの通りゲーデルの定理は科学界内外ともに誤謬と濫用が多くみられることで有名ね。うっかり分かったつもりにならないように注意しないと。分かる、分からないの境界を正確に見極めて、自分がどこまで語れるかを知っておかないとね。わ、私はちゃんと読んだわよよよ?

・その他
新倉俊一訳編『海外詩文庫 ディキンソン詩集』
亀井俊介訳『対訳 ディキンソン詩集』
 最後にわた――エミリ・ディキンソンというアメリカの美少女詩人の詩集を紹介するわ! 新倉俊一訳の49pにある「私は可能性の中に住んでいる」が作中でも引用されているわね。見直したわ、すかぢ、けっこうやるじゃない! ちなみにここの締まりのない感想で引用されているのもディキンソンの詩なのよ。亀井俊介訳の63pと85pにあるから気に入ったのなら読んでみてもいいのよ?