サクラノ詩 Sacraments Perception 下

四 膿爛相のゆるし
14 相貌と物語
13 認知意味論
12 意味の実在
11 アフォーダンス

五 タン相の塗油
10 心と他者
9 心の痛み
8 個人的相貌
7 他者のポリフォニー

六 散相の叙階
6 絵画の概念
5 正しい錯視
4 描くこと

七 焼相の結婚
3 法
2 空
1 序



膿爛相(のうらんそう)のゆるし

「そのころ、私は、どこへ行き、どこに生まれているでしょう。また、この眼の前の、美しい丘や野原も、みな一秒ずつけずられたりくずれたりしています。けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらわれるときは、すべてのおとろえるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです。わたくしでさえ、ただ三秒ひらめくときも、半時空にかかるときもいつもおんなじよろこびです」
――『めくらぶどうと虹』

14 相貌と物語

 眺望論は空間と身体というふたつの要因から知覚のあり方を説明したが、相貌論はそれに収まりきらない「意味」という要因のすべてを説明する。まずは、その意味という要因においてこそ「私」とは異なる規範として現われる「他者性」が見出されるということにふれておこう。
 ここまでの議論では私以外の人間を「他者」と呼ばず「他人」と呼んできた。あえてそうしてきたのは、私とは他ならぬ「私」であり、私以外の他人が「他者」であるという人称的な区別を、知覚的眺望はだれにでも開かれているものであり、感覚的眺望もまただれにでも開かれているという眺望の非人称的な構造が解消しているからである。つまり、私の身体、私の意識が「私」なのではないし、他人の身体、他人の意識が「他者」なのではなく、公共的な眺望地図においては、私と他人は同じ規範に属しているかぎりではともに「私」とされ、それとは共有されていない規範のすべてが「他者」として認められる。そして、その私と他者を分かつ決定的な要因が意味であり、相貌なのである。相貌は空間における位置関係や身体状態によっては説明しきれない知覚の側面のすべてを説明する。言い換えれば、私と他人が異なる位置、異なる身体状態にあるということだけでは説明できない見方の違いのすべてが相貌論によって説明されるのである。
 この点に関しては反転図形が示唆的である。右図は杯にも向き合ったふたりの人間の顔にも見える「ルビンの杯」と呼ばれる図形である。そのふたつの見方の違いは見る者の位置関係や身体状態の違いによって生じるものではなく、「どのような意味のもとに見るか」によって生じる違いである。
 杯に見えるか、顔に見えるかの違いは、物質に還元しえるものではないし、身体状態の異常によって説明されえるものでもない。その見方の違いは、「杯」という意味と「ふたりの人間の顔」という意味の違いによって説明される。
 反転図形は知覚における意味という要因を切り出すための好例であるが、しかし意味の反転というのは図形でなくても日常的な場面においてもごく普通に起こっていることである。たとえば、「スカートをたくし上げる」と言われて、西洋式の挨拶であるカーテシーであると考えるか、下着を露出させる行為であると考えるかの違いや、あるいはマンションを指して「これが俺の家だ」と言うとき、言った本人は当然ながら特定の一室が自分の家だと言っているのだが、常識に疎い人はマンションのすべてが家であると勘違いする、ということなどである。
 
 あるいは、一台のオートバイがあるとして、それを人が乗って走れるものだという了解が、それをオートバイという意味のもとに見ることを可能にしている。
 また、カワサキ・ニンジャZX-12Rに乗る者ならば、同じカワサキ製のマッハIIIに愛着を感じるだろうし、オートバイと会話ができると信じて車体に話しかけるような人がいるとすれば、その人には通常の見方とは異なる見方が開けているだろう。
 そうした見方の違いが私と他者を分かち、そして心と呼ばれるものも現われうるのだが、ここではまず先に、それらの相貌が時間性と可能性のなかでこそ生じえるものであるということを確認しておこう。

 ある一時点における知覚も、その時点だけの孤立した断片ではありえない。知覚は時間の流れの中に位置し、さまざまな可能性に取り巻かれている。私は、この点にこそ、知覚において〈空間〉〈身体〉と並ぶ〈意味〉という要因を見出す。この時間性と可能性を、眺望論は十分に捉え得ていなかったのである。
 そこで、知覚を取り巻く時間性と可能性という要因を取り出すため、「物語」という言葉を用いることにしたい。物語は現在の知覚を過去と未来の内に位置づける。そしてまた、私たちは現実の物語だけでなく、反事実的な可能性の物語も語りだすだろう。知覚はこうした物語のひとコマとして意味づけられる。物語に応じて異なった意味づけを与えられる知覚のこの側面が、「相貌」である。
――『心という難問』200p

 冒険、生活、日々、日常―呼び方はさまざまあるが、相貌論は現在の知覚事実と、時間性や可能性としての事態の総体を「物語」と呼ぶ。現実におけるすべての知覚は物語のなかに位置づけられるし、作品内で表現されるシナリオやストーリーのすべても、時間性と可能性としての物語であると言えるだろう。そして当然ながら、作品を作ることや作品を見ることなども、物語に位置づけられる知覚事実として捉えられるだろう。知覚しているということは現在の事実が経験されていることであるが、そこには反事実的な思考や想像、過去の記憶や未来への予期が含まれている。その物語のすべてに相貌が関わっている。
 相貌のあり方はきわめて多彩なものである。その要因をここで挙げておけば、どのような概念を持っているか、その物事をどう記述するか、それに関連して何を考えるか、どのような感情を抱いているか、その物事に対してどういう価値を見出すか、どのような技術をもっているか、その時どういう行為を意図していたか、こうした要因が相貌として知覚のあり方に反映される。だが、本稿で取り上げるのはそのうちのひとつである概念の相貌についてのみであり、その他の要因は主題的に論じることはない。その代わりに、概念的な相貌にたいして「非概念的な相貌」という区分を用いることにしたい。先にあげた要因を区分するなら、概念、記述、思考は概念的な相貌であり、感情、価値、意図、技術は非概念的な相貌である。
 われわれ人間の知覚のほとんどは概念的である。したがって、非概念的な相貌が知覚に与えられているときも、なにかしらの概念的な相貌もまた与えられているだろう。われわれにとって概念とはきわめて身近なものであり、それゆえに、どのような概念が知覚に与えられているのか、与えられていないのか、自身の経験からは判断しづらい。なぜ私の概念なのに、私によって把握することができないのか。というのも、概念の相貌とは、それぞれの人がそれぞれの判断によって与えているものではなく、盲目的に従っている規範に与えられているものだからである。

13 認知意味論

 直哉は「うなぎ」を知覚することができるだろうか。より正確に言えば、直哉は「うなぎ」という名前が付けられたイタリアン・グレーハウンド(以下、イタグレ)を知覚することができるだろうか。
 もし数多くある犬種からイタグレと呼ばれる犬種を見分けることができないのであれば、直哉はイタグレを見ることはできない。それはユーザーにとっても同様である。テキストウィンドウに表示された文字を読んだだけでは当然ながらイタグレを見たことにはならないし、実際に現実でその犬を見たのだとしても、ユーザーがイタグレを知らなければ、イタグレを見たことにはならない。
 当然ながらそこにいる犬を知覚することはできる。しかし、ここで問題にされているのは、その犬を「イタグレ」または「うなぎ」という概念のもとに見ることができるかどうかということである。うなぎの飼い主である奈津子であれば、その概念を知っているからイタグレとうなぎを知覚することができるが、直哉はその概念を知らないからイタグレとうなぎを知覚することができない。
 この場合、ふたりはまったく同じ知覚風景を経験しているとは言えない。ふたりの経験はその対象を「犬」という概念のもとに見ることに関しては共通しているが、しかしより詳細な概念である「イタグレ」や「うなぎ」に関しては異なる経験をしていると言える。
 このような、同じ対象を見るときにはある概念は共有され、ある概念は共有されていないということは、私と他人との関係において日常的に起こっていることである。もし「犬」というありふれた概念すら共有されないのであれば、われわれの生活(物語)は混沌としたものになるだろう。では、概念をもつことによって可能になる知覚のあり方は、物語とどう関係するのだろうか。

 一般に、概念Aはその典型例に関する私たちの通念にともなう。そして、その通念はそこに開かれる物語を規定する。それを、概念Aが開く「典型的な物語」と呼ぼう。ある対象を概念Aのもとに捉えるとき、私はその対象をAの典型的な物語の内に位置づけることになる。この典型的な物語が、その対象に反映され、相貌をもたらすのである。
――209p

 概念が知覚のあり方に反映されるのは、それがある範囲の対象をグループ分けするからではない。概念はそこに典型的な物語を開き、それによって対象は相貌を獲得するのである。
 このように考えてくると、「ある概念を理解している」といってもその理解にはより浅い理解とより深い理解があることになるだろう。
――『心という難問』210p

 たとえば、ライトノベルという概念には一般観念のような固定された定義があるわけではない。あるものをラノベという概念で捉えるとき、そのことによってその対象はラノベという概念が開く物語のなかに位置づけられる。われわれがそれをラノベとして捉えるとき、それは作者によって書かれ、表紙絵や挿絵があり、低価格の商品であり、若年層向けの内容であり、主人公やヒロインが登場し、日常や冒険が描写されており、やがては完結する、そういったものであることを了解している。最悪な出会い方をした主人公とヒロインでも、その後はなんやかやと仲良くなるだろうし、理不尽な惨劇が起こっても最後にはヒーローがなんとかしてくれるだろうと典型的な展開を予想する。しかし当然ながら例外もある。たとえば、原生生物が思索に耽りながら細胞分裂を繰り返すだけというラノベもあるだろうし、原画家に資金を持ち逃げされて会社は倒産というノンフィクションのラノベもありうる。美少女イラストが表紙の児童文学もラノベとされるし、挿絵があるというだけで聖書がラノベだとされることもある。そういった例外も認められるから、若年層向けであったり、イラストがあったりといった要素は、あるものがラノベであるために必須の必要条件ではない。だが、われわれは「ふつうのライトノベル」はそのようなものであると考え、その枠組みから多少外れたものは「変わったライトノベル」と考える。つまり「ライトノベル」という概念には典型的なものと例外的なものがあり、そのやわらかい線引きによってわれわれがラノベにたいして持っている社会的な通念の了解が形成されている。そして、その通念にしたがって、われわれはラノベの(お約束やご都合主義とも呼ばれるような)典型的な物語を開くのである。

 伝統的な概念観に従えば、概念の役割は分類であり、概念はその概念に当てはまるものたちの集合と結びつけて捉えられる。だが、たとえば「鳥」という概念のもとに私たちは単に鳥たちの集合を理解しているだけではない。私たちは鳥の中に典型的な鳥と例外的な鳥を区別する。私たちにとって、スズメや鳩は典型的な鳥(ふつうの鳥)であり、ダチョウやペンギンは例外的な鳥(変な鳥)である。認知意味論は、このような典型と例外の違いもまた「鳥」の意味を構成すると考える。そしてまた、認知意味論(とりわけプロトタイプ意味論と百科事典的意味論と呼ばれる議論)に従えば、典型的な鳥たちに関する私たちの通念も、「鳥」の意味を構成している。
――『心という難問』208p

 たとえば、絵画と絵画でないもの、それをなんらかのルールに基づいて分類したとしても、われわれはその分類のみによって絵画とされるものの集合を理解するのではない。仮に、絵画を「行為する主体が絵の具などの画材によって平面上に描画したもの」と広く定義し、それに基づいて絵画とそうでないものを分類したとする。その場合、当然ながらわれわれはそれだけで絵画の概念を理解しているわけではない。われわれは分類することをある程度までにとどめ、古典の名画やファインアートとされているものは典型的な絵画とみなしたり、洞窟の壁画や道路に描かれた落書きなどは例外的な絵画とみなしたり(あるいはみなさなかったり)するだろう。そして、そのような典型と例外への了解はそれぞれの人の物語によって変わりゆくものである。つまり、その時々の概念の意味を与えているのは厳密な定義やその場かぎりの判断ではなく、それぞれの人が生きる物語と属する規範なのである。
 しかし、ただ区別ができるというだけではその概念への理解は表面的なものにとどまる。絵画の概念をより深く理解している者ならば、その概念が開く典型的な物語をより詳しく知ることができ、それに応じて見出される相貌も異なったものになるだろう(絵画についてのより詳しい議論は六章にゆずる)。

 ちなみにイタグレの成犬は以下のような見た目をしている。

12 意味の実在

 人の知覚にはなんらかの意味が介入する。それぞれの人がそれぞれ異なった意味のもとに知覚する。そうであるなら、なぜ「世界そのものを知覚している」ということが言えるのだろうか。眺望論では意味という要因を固定した空間と身体に関する理論的な側面のみが語られてきたが、しかしその意味という要因においてこそ、われわれの知覚はさまざまに変化し、十人十色の様態が生じる。ならばやはり私と他人は、たとえ同じ知覚的眺望や感覚的眺望を経験することができたとしても、同じ意味を経験することはできないのではないか。
 このような疑問は、「私の心」や「私の意味」という私秘性を出発点として懐疑しているか、あるいは身体状態を原因とした感覚を意味と混同しているために生じるものである。知覚に与えられる意味とは、脳のさまざまな情報処理を経由した結果生じる意識上の漠然とした「感じ」のようなものではないし、快不快や躁鬱といった感覚のことでもない。では、意味はどこにあるのか。
 まず、意味は知覚からも感覚からも独立して存在している。ゆえに、私だけの意味、私だけの価値などというものは存在しないし、意味は私的に所有できるものではない。では、私的なものではなく人の経験から独立しているというのなら、それはだれにも経験できない超越的なものなのか。いや、そうではない。意味は経験可能である。そして、その瞬間にしか経験することのできない一回的なものではないし、他人と共有できないものでもない。意味は公共的なものとして、われわれの生活を支える規範として存在し、かつ経験から独立して存在している。つまり、意味は実在している。そして、それこそが意味という要因を含みながらも世界そのものを知覚することができるということの根拠にほかならない。
 われわれはだれにでも開かれた意味のもとに世界を眺める。その意味の様相が無限に多様なものであっても、それが実在であるかぎりはわれわれが経験する意味を隔てる断絶は存在しない。

 有視点的に把握されるとき、世界はさまざまな相貌をもった眺望として現われる。相貌をもたない眺望に出会い、それをもとに主体が意識の内に相貌を形成するのではない。世界はすでに物語のただ中にあり、私たちはその物語の登場人物として生きている。そのことを強調して、この世界を「物語世界」と呼ぶこともできるだろう。私たちは物語世界に生きており、物語世界は世界自体が相貌に満ちている。
――238p

 相貌に満ちた物語世界という考え方の対極にあるのは、物理学的な世界観、すなわち、物理学的に描写しうることのみが「世界」の名にふさわしいという考え方である。物理学は世界を無視点的に描写する。それゆえ、物理学的な世界観は、無視点的に描写しうるものだけを、世界と認める。
――『心という難問』239p

 相貌は有視点的にのみ把握される。ゆえに、無視点的に相貌の変化が捉えられることはない。意味の実在は物理学的手法によって実証されえないし、もとより物理学の対象ではない。「意味とはなにか」「価値、倫理は実在するか」といった議論は数千年前より行われてきたものだが、現代でもそれは続いているし、科学や技術が発展した数百年先の未来においても意味の実在に関する問題は解明されないままに残り続けるだろうと考えられる。少なくとも現代においてその実在の根拠を証明することは不可能であろう。となれば、意味の実在は科学の問題ではなく信念の問題として扱われるべきことがらだろう。そして、それは語りと示しの問題圏でもある。
 物理学は主体の有視点的な経験によって対象を無視点的に描写するが、しかし対象それ自体を経験することはできないと考える。そのため、客観的な対象を世界そのものとし、観察可能な範囲を経験された世界とする。では、語りと示しはどうだろうか。語りえるものが経験された世界で、語りえぬものが経験しえない世界そのものなのだろうか。
「語られえず、示されている」。この沈黙のテーゼを多くの人が誤解していると思われる。「語りえないのであればそれは経験することもできない超越的ななにかなのだろう」と。しかし、沈黙は経験可能である。なぜなら、それは物理学の対象である自然に還元されるものではなく、物語世界における意味として存在しているものだからである*1素朴実在論は、意味が含まれていない物理学の対象を世界そのものとして認めつつ、意味に満ちた物語世界も世界そのものとして認める立場である。だから、語りと示しを二元論的に解釈することはない。語られるものは経験でき、示されるものも経験できる。そして、語りえるものは記述や思考として現われ、語りえぬものは示されるものとして現われる。そこに先に区別した概念的な相貌と非概念的な相貌を対応させることができるだろう。語りとは概念的な相貌であり、示しとは非概念的な相貌である*2。そして、それらはわれわれの経験から独立して存在し、かつだれにでも経験することができるものなのである。
 意味の実在に関して明確な立場をとっている人はそう多くはないだろうから、実在しようがしまいがどちらでも構わないと思われるかもしれない。では、仮に意味の実在について否定の立場を選んだとしよう。そうすると、その世界における個人の経験は、その人の、その場かぎりの、その瞬間のできごととして過ぎ去っていくものと考えられなければならないから、その一瞬に永遠の価値を与えることができなくなる。その人にとっての意味と呼ばれているものは、唯物論的に還元されるか、意識に生じた主観的体験とされるか、不可知の形而上学的対象などによって説明されるしかなくなるから、経験と実在と永遠が一致することはありえず、したがって永遠の相のもとに世界をとらえることは不可能であると考えられなければならない。畢竟、永遠の相とは実在する意味を表わした概念である。そして、意味が実在しない世界では、だれとも同じ風景を見ることはできず、痛みを同じ規範のうちに了解することもできず、作品に神が宿ると言うこともできない。意味の実在の是非に関して個人がどのように考えようとその事実が変わることはないし、本当にそれがあるのかどうかも語りようがないが、しかしその実在を信じることなしには、永遠の相のもとに世界を眺めるという態度をとることはできない。われわれは示される意味を信じることしかできないのである。

11 アフォーダンス

 物語世界と呼ばれた相貌に満ちた世界は、ギブソンが説くアフォーダンスに満ちた環境の世界と同様のものであると筆者は考えている。つまり、相貌論における哲学的概念である「相貌」も、生態心理学における「アフォーダンス」の概念も、ともに実在する「意味」を論じるために導入された用語であると考える。
 ここでアフォーダンスの定義を確認しておこう。『生態学的視覚論』において、アフォーダンスは以下のように説明されている。

 環境のアフォーダンスとは、環境が動物に提供するもの、良いものであれ、悪いものであれ、用意したり備えたりするものである。アフォードするという動詞は、辞書に在るが、アフォーダンスという名詞はない。この言葉は私の造語である。アフォーダンスという言葉で私は、既存の用語では表現し得ない仕方で、環境と動物の両者に関連するものを言い表したいのである。この言葉は動物と環境の相補性を包含している。
――137p

 アフォーダンスの理論は、価値と意味に関する既存の理論と著しくかけ離れている。アフォーダンスの理論は、価値とは何か、意味とは何かの新しい定義から始まる。アフォーダンスを知覚することは、これまで共通に同意されることのなかった仕方で意味が何がしか付け加えられる、価値からは自由な物理的対象を知覚する過程ではない。アフォーダンスを知覚することは、価値に満ちている生態学的対象を知覚する過程である。いかなる物質、いかなる面、いかなる配置も、だれかに対して有益な、あるいは有害なアフォーダンスをもっている。物理学は価値から自由であるが、生態学はそうではない。
――『生態学的視覚論』153p

 動物が発見する環境の性質というのは、環境そのものにあらかじめ備わっている意味のことであると解釈できる。つまり、動物はそれぞれが固有の意味を経験しているのではなく、環境に実在している意味を経験しているのである。動物と環境の相補性には、二元論が想定する実在の経験不可能性は存在しない。意味は動物の経験から独立して環境に実在し、そして動物はそれを経験することができる。ゆえに、それぞれの動物はそれぞれの身体特性や生息環境の違いから異なる意味を経験するが、生存に関する基本的な意味はある程度共有されている。たとえば、二足歩行や四足歩行の動物にとって大地は「歩けるもの」という意味のもとに見られ、薄氷は「この上を歩くのは危険である」という意味のもとに見られる。その意味はあらかじめ環境に実在していたものが発見されたのだから、大地を歩く動物は大地や薄氷から与えられる意味を共有している。あるいは、大地の表面には大小の凹凸があるから、それらを障害物、段差、壁、道、崖、斜面などの、どのような意味のもとに見るかはそれぞれの動物によって違ってくる。たとえば、人間にとっては「段差」という意味や「階段」という概念のもとに見られる凹凸でも、ネズミにとっては「壁」や「崖」という意味を持つかもしれないし、ネズミにとっての「抜け穴」や「住居」という意味をもつものは、人間にとっては「不衛生なもの」や「ネズミ捕り器を仕掛ける場所」という意味をもつかもしれない。そのように、動物は生存に関する基本的な意味を共有しつつ、それぞれの生態にしたがって多様な意味を発見していくのである。

「食物」「敵」といった生存にとって基本的な相貌に関しては、私たちも動物の一員として、ある程度その物語を理解し、その相貌を理解することができる。しかし、忘れてはならない。その物語とは決して動物行動学的に三人称で語られた物語ではない。それはあくまでも一人称の視点からとらえられた物語である。言葉をもたない動物であれば物語を「語る」ことはない。彼らはただ物語を生きている。動物が生きている物語をその一人称的視点からとらえるのでなければ、彼らが経験している相貌は十全に理解しえたことにはならない。そしてそれは、やはり難しいことであると言わねばならない。
――『心という難問』309p

 たとえば、コウモリにとっての超音波は障害物の位置情報や同一種間のコミュニケーション手段という意味が与えられているが、それをコウモリの視点から経験できない人間には、コウモリが経験する相貌を理解することは難しい。それは根暗な青春生活を送った者が、きらきらした青春の意味を理解することよりいっそう難しいことである。しかし、動物愛好家や芸術家がそうするように、動物の知覚にたいする感受性を開いていけば、完全に分かるとは言わないまでも、より多くの意味を共有していくことは可能であると考えられる。

五 タン相の塗油(とゆ)

「それはあなたも同じです。すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与えられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈られます。ごらんなさい。まことの瞳でものを見る人は、人の王のさかえの極みをも、野の百合の一つにくらべようとはしませんでした。それは、人のさかえをば、人のたくらむように、しばらくまことのちから、かぎりないいのちからはなしてみたのです。もしそのひかりの中でならば、人のおごりからあやしい雲と湧きのぼる、塵の中のただ一抹も、神の子のほめたもうた、聖なる百合に劣るものではありません」
――『めくらぶどうと虹』

10 心と他者

 心とはなにか。この問題にたいして二元論的な立場をとれば、私の心と他人の心とは内界と不可知の外界に分かたれることになる。しかし、眺望論と相貌論から捉えられた世界では、私や他人の経験は意識や表象という観点から捉えるのではなく、空間・身体・意味という観点から捉えられ、それによって心と呼びうるものを内界の檻から解き放った。しかし、それだけでは心がどこにあるのかは不明なままであり、したがって、心とはなにかという問いにも答えられていない。なので、本章ではここまで語られた眺望論と相貌論をまとめつつ、その心の所在を適切に位置づけることを目的としたい。そのために、まずは眺望地図の確認からしていこう。
 眺望地図は公共的なものでなければならない。いわば、眺望地図には私と他人の経験が共有されるべきものとして描かれなければならない。視覚に関して言えば、眺望地図には無視点把握された世界の空間的なあり方が描かれ、その空間的位置と方向が知覚的眺望点となり、そこからの知覚的眺望がその眺望点に描き込まれる。眺望地図に描かれるのはそれぞれの人が知り得た範囲に限定され、また、知っている範囲のなかでも自分に関心のないことについては省略される。たとえば、以前は泪川ドヤ街のことをまったく知らなかった直哉が、酒を飲むためによく訪れるようになってからは、迷子にならない程度にはその周辺の知覚情報が眺望地図に描かれている。また、ドヤ街の一角にスナックがあるのを知っている場合、その空間的な位置が把握されているが、そこでノノ未が働いていることに興味がなければその情報が眺望地図に描かれることはない。
 
 そうしてそれぞれの人が自身の認知と行動を導く規範を、それぞれの経験によって作り上げていく。そして、眺望地図に描かれるのはあくまで公共的な情報だから、たとえそれぞれの人が自身の関心にしたがって行動しても、描き込まれたものには「正しい」か「誤り」であるかの評価がなされなければならない。ゆえに、私と他人とで情報が矛盾する場合は、どちらかが誤りであるか、あるいはどちらも誤っているのであり、それらは正しい眺望地図へと修正される余地がある。そして、正しく描かれているにも関わらず、描かれたものに違いがあるとすれば、それはたんに人によってその地図のカバーしている範囲が異なり、またその詳細さにも違いがあるというだけのことである。そして、各人が携える眺望地図は共有されることによってより広範囲でより詳細に描き込まれたものになりえる。

 公共的な世界はより包括的な眺望地図に統合される可能性がある。それに対して、より包括的な眺望地図に統合されえない眺望がある。それが経験において「心」とされる側面にほかならない。
――『心という難問』326p

 心は公共的なものではないゆえに、眺望地図に描かれることはない。たとえば、鯛焼きはあんこがしっぽまで入ってる系が好きなルリヲと、入っていないタイプが好きな鈴菜が同じ鯛焼きを知覚する場合、両者にとって鯛焼きの味や「鯛焼き」という概念のもとに鯛焼きを見ることは、公共的な見方であるために一致するべきものとされるが、しかし入ってる系が好きか否かの不一致は解消されないままに存在することが許されている。
 そのように、ある場面において私と他人とで共有されていない眺望が心と呼ばれるのである。知覚的眺望における心は、錯覚や幻覚、想像などがあるが、本稿ではそれは扱わず、感覚的眺望と相貌における心を論じる。

9 心の痛み

 経験において「心」とされるもののひとつは感覚的眺望である。眺望地図をより包括的にしても、そこに感覚的眺望が描き込まれることはない。
――『心という難問』326p

 感覚的眺望は身体状態を原因とした心身因果によって生じる。たとえば、「酒を浴びるほど飲んだ」といった身体状態から「ゲロを吐くほど気持ちが悪い」という感覚的眺望が生じる。われわれはそれを経験することによって「酒の飲みすぎると気持ちが悪くなる」という因果関係についての一般的な了解を得る。

 しかし、私や他人が実際に感じている感覚的眺望は眺望地図に描かれることはない。

 眺望地図は眺望点と眺望の関係を記載したものである。それは誰かが特定の眺望点に立つこととは独立に成立している。(中略)眺望地図は実在論的に世界のあり方を描いたものにほかならない。
 他方、感覚的眺望は実在論的なあり方をしていない。誰かの身体に棘が刺さってはじめて、棘が刺さった痛みが生じるのであり、スカイツリーの眺望が誰かに出会われるのを待っているのとは異なり、痛みが誰かに経験されるのを待っているということはない。それ故、感覚的眺望は――私のものであれ他人のものであれ――眺望地図には描かれない。
――『心という難問』327p

 痛みが実在論的ではないということで、私の経験から独立している他人の痛みはやはり存在しないのではないかと思われるかもしれない。しかし、ここで言う「経験されている痛み」というのは、私の経験だけではなく、私の経験を含めたすべての主体の経験を指している。世界のどこかで感じられている痛みについて私は知ることはできないが、しかし他人が経験しているのであれば、その痛みは存在している。逆に私も他人も経験していない痛みは存在しない。つまり、痛みは実在論的なあり方をしていないのである。

8 個人的相貌

 眺望はかならずなんらかの相貌をもつ。あらゆる知覚、あらゆる感覚にはかならず意味が与えられている。それゆえ、眺望地図に描き込まれる眺望はなんらかの相貌をもっている。眺望地図は私と他人とで共有されるものだから、相貌もまた共有される。しかし、すべての相貌が共有されるわけではない。ここに相貌において「心」と呼ばれるものの核心がある。まずは例示してみよう。
 櫻達の灰色の足跡を眺める複数の人がいる。多くの人はそれをただの落書きとして見るだろうから、その見方は公共的なものとして眺望地図に描き込まれる。だが、それを「草薙健一郎越えをした芸術」として見る香奈や、「思い出の作品を汚したもの」として見る桜子には、その壁画は通常とは異なった風景に見えるだろう。
 
 あるいは、寧を見たとき、直哉はその姿にほとんどの人が見ることがない圭の面影を見るだろうし、あるいは、あるウィスキーの酒瓶を見るとき、直哉はそれを「親の形見」や「人生最高の瞬間に開けるもの」として見るだろう。
 

 人によるこうした違いが「心」と呼びうることがらだと考えることは、直感的に見て自然だろう。この直感を、相貌論のもとで明確なものとしよう。
 複数の人で共有されている相貌を「公共的相貌」と呼び、共有されていない相貌を「個人的相貌」と呼ぶことにする。
――329p

 個人的な相貌は公共的な眺望地図には描き込まれない。公共的な眺望地図からはみ出た個人的な相貌は、心に属している。ここに、世界はその相貌において公共的な側面と心に属する個人的な側面に分かたれることになる。
――『心という難問』331p

 使用する言葉の意味が属する共同体のなかで共有されるように、公共的な相貌もまたそれぞれの共同体のうちに共有される。たとえば、家族であれば多くの思い出や生活上のルールを共有しているだろうし、部員が集まって作品を合同で作る際には、その共同体にとっての作品を作る意味はある程度は公共的なものだから、材料や道具の使い方や分担された作業の意味を逐一確認しなくても手を動かすことに専念することができる。そうした公共的な相貌は、知覚的眺望や身体状態と同じように眺望地図に描き込まれ、共同体の実践を導く規範として機能する。そして、そこには楽しさや苦しさ、懐かしさといった相貌もまた公共的なものとして描かれるだろう。その一方で、ある時点では公共的なものであった相貌が、ある時点では個人的なものとしても経験されうる。たとえば、櫻達の足跡を仲間内で見る場合と、ひとりで見る場合がそうである。この場合、公共的か個人的かの違いはあるが、経験されている相貌は同じものである。
 
 つまり、個人的な相貌と公共的な相貌は明確に線引きされるようなものではなく、時間の流れとともに連続的に推移するものなのである。私の眺望地図と他人の眺望地図は、統合と離散を繰り返すために静止した状態で定まるということがない。その循環のなかで、心もまた私と他者のあわいを漂流する。ゆえに、心は個人的な相貌として現われながら、だれにでも経験することができるのである。

7 他者のポリフォニー

 私と他人は異なる身体をもつために同一人物ではありえない。しかし、眺望地図や独我論的世界における私と他者は規範のあり方によって区別されるために、私は他人になりえるし、他人は私になりえる。ひとりで旅をするときでも、大勢で祭りを楽しんでいるときでも、他人は部分的に私であり、部分的に他者である。そして、私と他者が異なる規範として存在しているのは、それぞれの異なる物語を歩んでいるからであると言える。

 相貌は物語によって決定される。それゆえ、相貌の公共性と個人性は物語の公共性と個人性にほかならない。同じ物語を生きていると言いうる複数の人たちは同じ相貌を共有しうる。共同体――なんらかの行動を共にする複数の人間の集まり――は、まさに何らかの行動を共にすることにおいて、物語を共有する。(中略)かくして、行動を共にしている二人は、それによってある程度物語を共有するが、それはあくまでも物語の断片である、粗筋にとどまる。複数の人が、生まれてから現在までのすべての時間にわたって物語を共有し、かつ、あらゆる細部をも共有することなどありえない。これが、「他者性」の正体である。
――『心という難問』333p

 規範には正誤の評価が成されなければならない。もしある共同体における規範が批判されることも改訂されることもなく、ただかくあるようにしてあるのならば、それはもはや規範と呼ばれうるようなものではありえない。正しさの対となる誤りがなければ、「正しい」という概念すら存在しなくなるからである。ゆえに、私の経験が可能であるためには、正誤を評価するための他者の存在がなくてはならない。
 私とは異なる規範が他者として現われるというのであれば、作品内のキャラクターもまた他者として現われると言えるだろう。当然ながら、それはキャラクターが実物の肉体をもった他人として存在していると言っているのではないし、また、私とは完全に異なる規範として現われていると言っているわけではない。ユーザーとキャラクターは同じ規範に属している範囲において私であり、部分的に異なる規範においては他者なのである。その規範に基づいた関係性は、現実におけるわれわれの人間関係と異なるものではないだろう。われわれはある概念が開く典型的な物語を了解し、生と死、栄養摂取、生殖、危険回避などの生存に関する基本的な物語をキャラクターと共有している。そういう意味で、われわれは現実の物語世界を生きながらも、作品内で表現された物語の時間性と可能性をも生きていると言えるのである。

六 散相の叙階(じょかい)

「いいえ私はどこへも行きません。いつでもあなたのことを考えています。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるということはありません。けれども、あなたは、もう私を見ないでしょう。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。私はあなたにお別れしなければなりません」
――『めくらぶどうと虹』

6 絵画の概念

 われわれは絵画を言葉によって分類する。しかし絵画の概念を明確に定義することはできない。広義の意味で平面上に描画されたもののすべてを絵画と呼ぶにしても、狭義の意味でファインアートのみを絵画と呼ぶにしても、絵画と絵画ではないもののあいだに明確に線を引くことはできない。概念は私的に意味づけることもできないし、また一般観念として存在しているわけでもない。それはある文化、ある共同体における一般的な通念の了解として存在し、われわれの認知や行動にともなってつねに変化していくものである。そして、われわれがある対象を「絵画」という概念のもとに見る際にはかならず言語的な意味理解が含まれていると考えられる。

「概念」をどう捉えるかによるが、私自身は概念は非言語的ではありえないと考えている。ある概念は他の諸概念と組み合わされてさまざまな思考を形成しうるのでなければならない。その中には反事実的な思考も含まれる。そしてそのような思考が可能であるためには言語が不可欠だと思うのである。
――『心という難問』注129 368p

 ある対象を絵画として分類することや記述すること、また思考することのすべてには概念的な相貌が関わっている。それに、すべての言葉が相貌であり実在であるなら、それとともに絵画を見ることは絵画そのものを見る行為であると言えるだろう。しかし、絵画に宿る相貌は概念による把握に収まるものではないし、逆に、概念的に知覚されることによって多くの相貌が経験されないままに残されているということが往々にしてあると考えられる。多くの人もまた「芸術には言葉では言い表わせないなにかが表現されているからこそ芸術と呼ばれうるのであり、絵画もまた概念的な把握を超えた作品こそが絵画と呼ばれうる」というように考えるのではないだろうか。そして、その一般的な了解にも表わされている通り、ある対象が絵画や芸術とされるのは概念的な把握によるものだけではなく、ある対象を絵画や芸術として見るという行為そのものに示されるものでもあると言えるだろう。
 非概念的な知覚とは非言語的な知覚にほかならないが、われわれは日常的に対象を概念のもとに知覚し、言葉を使用しているから、いざ非概念的に対象を知覚しようとしても、それがどのようなものか分からないし、どうすればそれができるのかも分からない。だが、実のところ非概念的な知覚というのはすべての人のあらゆる行為に示されているものである。ただ、それには個体差があり、浅い理解と深い理解があるから、自らの知覚に示される相貌にたいする態度もそれに応じて変わってくる。人が絵画の概念を深く知るのは、絵画を観察し、資料によって学び、実際に描くことによってであるが、それとともに絵画にたいする非概念的な知覚のあり方も覚えていく。だが、時として概念的な理解が、より深い相貌による知覚の妨げになることもある。われわれは言葉を覚え、使用し、概念を操作することに慣れ親しみすぎて、正しくものを見ることができずにいる。

5 正しい錯視

 生まれたての赤子は立体や距離を知覚することができない。なぜなら、いま見えている風景が空間的に把握されるためには、実際に空間のなかを移動することによって知覚のあり方に習熟していく必要があるからである。赤子は移動することによってあるものが立体として存在していることを知り、それとともに立体的な見え方を覚えていく。その経験なくして、ひとつの視点から眺められた風景が立体や距離という意味のもとに見られることはない。つまり、有視点把握された風景や平面上に描画された絵画を立体的に見ることはできないのである。有視点把握は、ただそれだけでは平面的であり、それが立体的に見えるというのは錯視に属する見え方である。しかし、われわれはものが立体的に見えているという当たり前な風景を錯覚や幻覚だと疑うことはない。それはものを見るという行為に立体や距離という意味が公共的な相貌としてほとんど無自覚のうちに与えられているからである。いわば、われわれはものを見るとき、ほとんどつねに錯視的にものを見ているのであり、それはそれで正しく錯視していると言える。そして、その見え方は絵画を見るときにも応用されている。

 同様に、遠近法に従った絵を見るときも、建物の立体的な相貌や風景が持っている遠景ー近景の奥行の相貌は、絵そのもののあり方と言える。(絵画から相貌を取り除いたら、それはもう絵画とは言えない。)こうした事例において、もし「絵そのものの客観的なあり方は無視点的に描写されるべきであり、相貌は絵そのもののあり方ではない」などと主張されたとしたら、それはきわめて不自然な主張だろう。
――『心という難問』253p

 ものを見るときや絵画を見るときの非概念的な意味には濃度がある。つまり、立体や距離の知覚には浅い理解と深い理解があるのである。当然ながら、非概念的な意味には立体や距離の相貌以外にも無数にあるが、われわれはその意味を見ているようで、その実ほとんど見えていないということに気づいていない。そして、いくら対象を言葉や資料によって概念的に深く理解しても、非概念的な意味のもとにものを見るということをより深く理解することは難しいだろう。その語りえない意味をいかにして知覚するのか。その意味がいかにして示されるのか。そのためのもっとも有効な手段のひとつとして、絵を描くことがある。

4 描くこと

 われわれは赤子のように概念を知らなかったころには戻れない。ゆえに、ものを概念的に見ることしかできない。では、赤子には非概念的な意味による知覚が可能だろうか。先述したとおり、赤子はまずまったく意味付けのされていない無秩序な世界に生まれてくるので、ほぼ無意味な知覚はできても、非概念的な意味による知覚はできていない。純粋にものを見ること、正しくものを見るということは、無意味で無秩序なありのままの自然を直視することではない。より深い意味のもとにものを見ること、それが正しくものを見るということである。見えているものには、立体、距離、感情、価値、技術、意図などの語りえない意味が無数に宿っているが、われわれも赤子も、その意味をわずかにしかつかむことができていない。
 絵を描くということは、まず自分がまったくものを見ていないということを自覚するところから始まる。立体や距離の相貌はだれにでも与えられるがゆえに公共的だが、しかし絵を描く者なら知っているように、訓練されていない眼で見ても、それはきわめて曖昧なままに把握されているのみである。日常的な見方では、注意が向けられていないものや関心のないものは知覚から省略されるか忘れ去られ、それらにたいする潜在認知的な相貌への理解は浅いものにとどまる。ゆえに、ものが見えることを深く理解し、それに基づいて絵を描くためには、それらの見えていないものを見る必要があるのである。

 私たちは、有視点把握が無視点把握の表象であるという考え方を完全に振り捨てねばならない。さらに、眺望地図が世界のあり方を余すところなく忠実に捉えているという考えも捨て去るべきである。この点に関してはこれまで明確に述べてこなかったので、多くの読者に誤解を与えていたかもしれない。眺望地図に描かれるあり方こそ世界であり、眺望地図に描かれるあり方だけが世界なのだ、と。なるほど眺望地図に描かれたあり方は世界のあり方である。しかし、それだけが世界なのではない。ふつうの地図がそうであるように、眺望地図もまた整理され簡略化されたものにすぎない。世界は眺望地図よりもはるかに豊かなのである。
――『心という難問』266p

 絵を描くということ(とりわけ現実にある対象を模写すること)は、それまで見られていなかった意味や知覚的眺望を発見し、その詳細を眺望地図に描き込んでいく行為にほかならない。絵を描く者は見えていなかったものを見ることによって、自身の見方を自覚する。それによって、ものが見えるということを知っていくが、しかしそれまで見えていなかったある対象を関心をもって注意深く観察すれば、やはりそこには概念的な意味がともなうことになるだろう。概念は可能性を開き、より多くの相貌をもたらすが、しかし時としてそれは知覚に混入する異物となる場合もある。絵を描く者が表現するのは概念的な相貌と非概念的な相貌が複合的に与えられた秩序であるが、しかしそうした完成を意図した作品を描く以前のデッサンや模写などの基礎的な訓練は、むしろ既存の秩序を解体していくことを目的とする。絵を描くための基礎的な見方に言葉は不要であるし、ものを正しく見ることに意味の優劣は必要ない。壁の染み、金属の錆、段差の影、縁の凹凸、表面の勾配、位置関係、比率、質感、そういったものを描いていく行為のうちに、より深い非概念的な意味が示されるようになる。そして、それによってものの見え方、描き方の意味が新たに秩序付けられていくのである。

七 焼相の結婚

「虹さん。私をつれて行ってください。どこへも行かないでください」
 虹はかすかにわらったようでしたが、もうよほどうすくなって、はっきりわかりませんでした。
 そして、今はもう、すっかり消えました。
――『めくらぶどうと虹』

3 法

 科学は観察不可能な世界を客観的な真理とし、実証的な方法によって得られたデータをもとにその描像を抽出する。また、科学は対象を無視点的、客観的に描写するが、しかし精度の高い実験をいくら繰り返しても、不可知の実在は観察されないままに残されているため、科学は世界を語り尽くすことができないだろうということが言われる。二元論はそう考えるだろうし、素朴実在論もまたそう考える。しかし、科学は背後にある実在を担保にして理論を正当化すると考える二元論にたいして、素朴実在論は観察の手法とデータへの信頼を担保にして理論を正当化すると考えるので、客観と主観、実在と経験という区別を必要としない。代わりにそこにあるのは、無意味と意味、または規則と規範という区別であり、そしてそれらはともに世界そのものとして実在している。*3。科学もわれわれの生活も、無意味な世界を秩序付けることによって成り立っている。

 私たちはすでに意味に満ちた世界に生きている。しかし、いったんその意味のすべてを抜き去ろう。「椅子」や「犬」といった意味をもたない――「光」や「音」といった意味すらもたない――それを一括して「ノイズ」と呼ぶならば、まず私はノイズしか存在しない世界に生まれる。ノイズは無意味であるが、しかし、因果的効力はもつ。太陽の光が道端の石をあたためるのは、意味によってではない。太陽の光はそこに何の意味も付与されていなくとも、道端の石(「石」という意味をもたぬそれ)をあたためるだろう。あらゆる生物も、もちろん人間も、そうしたノイズの中で因果的に促されてさまざまな反応を示す。植物はそれでなんの問題もなく生きていくに違いない。しかし、少なくとも人間は(そしておそらくは人間以外の動物たちの一部も)、このノイズに意味を見出し、それによって生き延びている。私たちは、そうして世界に意味を見出し、世界を秩序付けてきた。
――『心という難問』339p

 規則は因果的効力をもち、あらゆる自然的現象を引き起こしている。そこには意味も規範も存在せず、物理の法則や物体の運動があるのみである。たいして、われわれは意味に満ちた世界に生き、規範をもち、それにしたがって生活している。そして、どのような規範も、規則を前提にすることでしか成立しえないが、われわれは規則そのものを決して認識することはできない。だからこそ、多くの科学者や哲学者は不可知の自然こそが客観の世界であり、われわれの属する規範に基づく認識の世界は表象にすぎないと考える。そして、語りえぬものと語りえるものの区別もまた、規則と規範の区別と同様であろうと考える。しかし、そうではない。
 四章「意味の実在」でも論じたように、それはわれわれが経験し、かつ実在する意味を、概念的なものと非概念的なものとに区別したものである。「示し」や「沈黙」という言葉は、無意味なノイズを表わすものではない。それは世界に実在し、主体の経験によって示される意味である。筆者はこの語りと示しの区別を、初期大乗仏教の僧、龍樹(りゅうじゅ)が『中論』において説いた二諦(にたい)説にも見出したい。二諦説は初期仏教の基本教義における真理を、世俗的な真理と非凡な真理のふたつに区別する。まずはそのふたつの側面が説かれている中論24章の一部を引用しよう。

諸仏は二諦に依りて、衆生の為に法を説きたもう、
一には世俗諦を以って、二には第一義諦なり。
若し人、二諦を分別するを知る能わざれば、
則ち深き仏法に於ける、真実の義を知らず。
世俗諦とは、一切の法性(ほっしょう)は空なるも、世間は顛倒(てんとう)の故に、虚妄の法を生じ、世間に於いては是れ実なり。
諸の賢聖は、真に顛倒の性を知るが故に、一切の法は皆(くう)にして、無生なるを知り、聖人に於いては、是の第一義諦を名づけて、実と為す。
――龍樹『中論』二十四章 八,九詩

 世俗諦はそれぞれの人間、文化、社会がもっている信念や概念、言葉、常識、法律、価値観などのだれもが知りえるような平凡な真理のことを言い、第一義諦は悟りを開いたとされる諸仏が知りえる非凡な真理のことを言う。一部の宗教家は、二諦説を実在と経験の二元論であると解釈したり、また規則と規範の区別であると解釈するかもしれない。曰く「「虚妄の法」と世俗諦が言われている通り、それは主観的かつ経験的な世界であり、「一切の法は皆空にして」と第一義諦が言われているように、それはどんな意味も価値も与えられていないありのままの世界のことであり、それを見通すことがすなわち悟りの境地なのである」と。しかし、素朴実在論から解釈すれば、世俗諦も第一義諦もともに真理であり、実在である。なぜなら、世俗諦における虚妄の法というのは、たんに人にはさまざまな価値観があると言っているだけだからその実在は否定されていないし、第一義諦は「賢聖」や「聖人」と呼ばれるような者が見るものと言えば、そこにはなにか超越的で形而上学的な印象があるが、しかしそれはだれにでも経験可能な実在だからである。ここで言われている真理とはすなわち法のことである。では、世俗諦と第一義諦とに区別される「法」とはなにか。それは、相貌やアフォーダンスや永遠の相と同様に、実在する意味を表わすものとして解釈することができる。そして、通常の概念的であり非概念的でもある知覚に与えられる世俗諦としての浅い意味にたいして、「深き仏法」や「真実の義」として示されるような非概念的な知覚に含まれる意味を「意義」と呼びたい。

2 空

「法」はあらゆる宗派においてもっとも重要視される概念である。なぜなら、それは釈迦が悟りを開いたことに法の自覚があったからであり、またそれに基づいた教義が法と呼ばれているからである。ほかにも経典や経巻を法と呼んだりと、宗派によって多少解釈が異なる場合があるが、基本的には開祖である釈迦の悟りの内容そのものが法であるとされている。そして、それが意味の実在を示しているものならば、それに基づく教義を規範と呼ぶことも許されるだろう。
 法の一切は「空」であると説かれている。ゆえに意味や規範も空であると考えられる。では、空となんなのか。空の解釈もまた宗派や教説によって異なるが、ここでは『中論』で説かれた龍樹の空観である「無自性(むじしょう)空」から解釈しよう。
 無自性とはつまり自性がないということである。自性とはあることがらに独自性や固有性、実体性が認められることを表わしている。そして、自性とされることがらは、それ自体で完全に独立して存在しており、その他の要因とまったく関係することのない不変な性質をもつものとされる。たいして、その自性がないとする無自性空は、すべてのことがらが関係性によって成立していて、なにひとつ自立して存在するものはないとする。そして、その関係性には相互矛盾や相互否定という、いわゆる相対主義的な側面があることも含意されている。つまり、「法の一切が空である」ということは、すべての法が相対的で因果的な関係性によって成立しているものであることを表わしていると考えられる。
 世俗諦において虚妄の法もまた真理である言われている通り、すべての法が相対的であるという事実が法の実在を否定することはない。それは「ある規範では真であることが、ある規範では偽とされる」というような、意味の多様性に基づく相互矛盾や相互否定の関係を言っているにすぎない。また、法が実在であると言うと、それは永遠に不変のものなのであるから、独自性や固有性をもった自性なのではないかという批判が為されるだろうが、しかし法の実在は不生不滅と言われながらも完全に永遠であるというわけではないし、それ単体で存在しているわけでもない。法、相貌、アフォーダンス、意味は、生物のあり方によってそのあり方を変える。つまり、意味は生物の生存に依存しているのであり、生物のはじまりとともにはじまり、生物の終わりとともに終わり、生物が生き続けるかぎり、終わらないものなのである。

 向こうに一本の木が立っている。生物がいなければ、それを「木」という意味のもとに見ることはないし、「立体」という意味や「遠い/近い」という意味さえ成立していない。どういう意味のもとに見るかによって異なりうる知覚の側面を「相貌」と呼ぶが、生物がいなければいかなる意味も与えられず、それゆえいかなる相貌も成り立たない。そしていっさいの相貌を奪われた眺望――いっさいの意味内容をもたぬ眺望――など、もはや「知覚的眺望」の名には値しないだろう。
 ならば、「一本の木」という意味をもった眺望は、知覚器官をもった生物がいなければ存在しないということになるのか。その通りである。たとえ知覚器官をもっていたとしても、「木」という概念をもっていなければ、私たちのような相貌は成立しない。つまり、私たちのような相貌をもった眺望は、私たちがいなければ成立しない。
――『心という難問』177p

 諸法無常という言葉の通り、すべての法はうつろいゆくものであり、実在と生物の経験のあいだを循環するものである。そして、空を無自性という観点から捉えることは、空もまた流動的に変化するものとして明らかにしたものである。そこに変化しないものや静止したもの、固有の自己や主体を想定するのが自性であり、「我」である。また、我は「私」という人称性や自己への固執や霊魂のような不滅の自我を想定するところにも現われるが、それらは釈迦の唱えた諸法無我によって否定されている。意味や規範の本来的なあり方に、我は必要とされていないのである。
 以上のことから、法は無自性であり、無常であり、無我であるということが言えるだろう。それらを総じて「法の一切は空である」と説かれているのである。そして、そのような非人称的、公共的なあり方を独我論的世界にも見出すことができるだろう。

1 序

 私が死ぬということはこの身体が生物としての機能を停止することを意味している。しかし、「私」の居場所を意味と規範に求めるならば、たとえこの身体が火葬されても私は世界そのものとして在り続けることができる。それまでに私が経験してきた意味のすべては実在なのだから、先を歩く者たちはそれと同じ意味を経験していくだろう。となれば、もう私が生きようが死のうがどちらでも構わないのではないだろうか。経験するのはだれでもよいのだから、意味はだれにでも開かれているのだから、私が私の生に執着することもないのではないか。むしろ、死ぬことで永遠の相に帰依できるのであれば、積極的に死を選ぶべきではないのか。
 釈迦はこの世の一切が苦であり、そして、苦の意味を取り違うところに煩悩が生じると説いた。つまり、苦には正しい見方と、誤った見方があるということである。そして、苦に正誤の評価が為されるというのであれば、そこには規範が存在している。苦とは、つまり生きる痛みそれ自体のことだろうか。その感覚の現われのみを指して、苦と呼んでいるのだろうか。いや、そうではない。苦とは世界のあり方が正しく記された規範のことにほかならない。「生きることはだれにとっても苦しい」「生きることによってみんなが痛んでいる」、そういった生への基本的な了解をはじめとした、あらゆる身体状態と感覚との関係についての知識が、すべての苦しみの因果関係を説明している。つまり、それはありふれた苦しみであり、みんなの同じ苦しみであり、正しく現われた苦しみであるということが、世界のあり方についての知識や規範として、眺望地図に記載されているのである。それと同じように、人が快楽や幸福を求めることも、規範に基づいた正しいあり方である。それは、私個人が私の幸福を望むから正しいのではなく、みんなが幸福を望むことが当たり前のことだから、私が幸福を望むことも正しいあり方だと言えるのである。そして、苦痛や快楽がある身体状態からの当然の帰結として現われることが了解され、かつそれが正しい意味のもとに捉えられたとき、苦痛も快楽も、すべては「苦」として了解され、煩悩は滅却する。そして、苦痛を引き受けることも快楽を求めることも、生物としての、人間としての正しいあり方であれば、たとえ我を捨てたのだとしても死を選ぶことはできない。なぜなら、死を選ぶということは自己への執着を捨てる正しい姿のようにも思えるが、しかし、それは生物の基本的なあり方から外れているからである。私が規範であるというのであれば、あらゆる生物に共通する「生存」に関わる意味が共有されていなければならない。つまり、私が生き続けるという行為には、あらゆる生物の生きる意味と規範が示されていなければならないのである。苦しいことは正しく、幸福を求めることもまた正しい。みんなが生きているから、私が生きることもまた正しい。みんなの終わらない旅が始まっているように、私の終わらない日々も始まっている。

*1:通常であれば「沈黙」という比喩によって指示されるのは自然や宇宙そのものといったものであるが、語りえぬものとしての沈黙は意味についての比喩である。

*2:語りを概念的な相貌とし、示しを非概念的な相貌としたが、しかし言葉の意味は示されるものでもあるし、感情や価値は概念的に把握される場合もある。そのように、実際の知覚や言語実践の場面では、概念的な相貌も非概念的な相貌も混交しているので、この区別はその実態を端的に表わしているものではない。なので、あくまで目安のようなものだと思っていただきたい。

*3:規則と規範は以下のようにも区別される。“私は、ここで自然的秩序(ピュシス)と規範的秩序(ノモス)とを区別したい。大声を出して驚かせることは自然的秩序に属している。それに対して、「ニゲロ」と言って警告することは規範的秩序に属している。”――野矢茂樹『哲学航海日誌』117p