サクラノ詩 斑達の夢跡 上

APRIL
9 the wild butterflies
10 意識の繭
11 灼熱の言葉
12 懐疑の焦土
13 蝶番命題
14 私の裏側
15 奈落の猫
16 目覚めと夢見
17 地を潤す
18 風景相
19 骸と天使の廻天
20 墓碑銘無き音楽会
21 ジャバウォック・ゲーム
22 非誕生日のバースデー
23 世界模型
24 箱庭の神話
25 意味の意味
26 トイ
27 アレクサンドラ・チキン
28 墓標命題
29 古都を渡す箱船
30 約束を量る



9 透明な渦の上を渡る

     (the wild butterflies)

HAPPY BIRTHDAY
「君の誕生日のおくりものを考えてみたんだけど……」
――野矢茂樹 文/植田真 絵『はじめて考えるときのように』217p

10 意識の繭

「残念だったな……俺はお前と違って青空の方が好きなんだよ……」
「何だよそれ……別に私だって青空嫌いじゃないよぉ」
「何言ってんだ……。お前何時だか言ってただろ……永遠に続く青空を隠してくれるから雨雲が好きだって……」
「そうそう、私は雨好きだよ。うん、大好きだねぇ雨雲ってばさ……」
――『素晴らしき日々』jabberwocky 皆守 由岐

 これから私が辿ろうと思う考察は、けっきょくはこの青空に到達するためのものにほかならない。だが、それならばいつものように何気なく空を見上げればよいだろう。いったい、なにがそれを妨げるというのか。いや、実のところ私は、いともたやすく意識という繭にからめとられてしまうのである。
――野矢茂樹『心と他者』16p

心とはなにか。
 この問いかけからはじまる諸々の考察、あるいは素晴らしき日々の物語は、巡り巡った果てになんの変哲もないありふれた風景へと辿りつく。疑うことを知らない赤子や動物が、自然と心、あるいは事実と価値を峻別することがないように、日々擦り切れていく生活者もまたその問いに囚われて頭を悩ませることはそう多くない。解決しようがしまいが生活に支障をきたすことのなさそうなこの哲学上の問題に、しかしある人は足を取られ、懐疑の迷宮をさまよったあげく、身動きがとれなくなってしまう。いわゆる、哲学病の人である。素晴らしき日々においては多重人格や幻覚などの非日常的な道具立てによって、ふだんは疑われていない身体の機能や心の所在を懐疑の日のもとに晒し、ユーザーにたいしてさまざま疑念や違和感を提示しながらも、最後にはなにひとつ変わらない風景に辿りついて幕を閉じる。しかし素晴らしき日々は、その先にある心と他者についてはなにも語っていない。その先にある心と他者は、それまでの物語のなかで語られてきた心と他者とはまったく異なるものである。
 心とはなにか、という問いに答えようとするとき、人はまず内側と外側という区別を暗黙の前提として受け入れる。私の身体のなかにある心が内側であり、私を取り巻く環境が外側であり、そして他者の身体という外側に他者の心という内側がある、というふうに。しかし、その前提を受け入れたとき、私は、私の意識、私の知覚、私の感覚、私の感情などといった内側の世界に閉じ込められてしまう。たとえば今、建物の屋上で青空を見ているとする。澄んだ色が視野を覆い、風が皮膚の温度をさらっていく。私は空の色を美しいと思い、涼しさを心地よく感じ、空の向こうにある星々に思いを巡らせる。それらはすべて私の内側に生じたイメージ、視覚情報、感情であり、世界そのものや物自体といった実在から切り離されたセンス・データなのだ……そのように考えるならば、桜の花弁も、私たちが立つこの大地も、すべては私の心という内側のなかに生じる現象として存在することになるだろう。
「芸術は自然を模倣する」……この言葉を言葉通りに受け取るときもまた、われわれは芸術と自然、心と風景を区別する前提を疑っていない。芸術家は目に写る心象の風景を描くのであり、自然をそのまま表現しているのではない、と。たいして「自然は芸術を模倣する」という言葉であれば、その暗黙のうちに区別されていた前提は、違和感とともに姿を現わすだろう。心と風景の区別、または自然と芸術の区別はわれわれの常識であり、そして常識であるからこそ見えない前提として生活のなかに隠されている。しかし素晴らしき日々の青空も、サクラノ詩の絵画も、それは心に映し出された現象というわけではないし、自然を象るだけの模倣品というわけでもない。自然は、そして芸術は、見られたものとして実在し、見られた心として実在する。だからこそ、そこに心と自然の峻別は不要である……それはまぁ、そうなのかもしれない。だがそうしたとき、心はどこにあるということになるのだろうか。区別しないのであれば、なるほど、たしかに心と自然はきわめて実在論的に語りえるのかもしれない。しかしそうは言ったところで、心がどこにあるのかが分かっていることにはならないだろう。では、いったい私の内側から放たれた心は、世界のどこにあるのだろうか。

11 灼熱の言葉

 あらかじめ本稿における全体の流れをここで断っておこう。本稿ではサクラノ詩の物語を本編において描写された順番ではなく、時系列の通りに並べ替えたうえで、各場面で扱われた主題を考えていく。具体的な流れとしては、千年前の伯奇と義貞の物語、幼少期の稟と雫、雫と直哉の出会い、共通√、雫個別√、そしてV章の終盤に記憶を取り戻した稟とその先、という順で検討していく。そしてそれぞれの場面について行われる考察の多くは、日本の哲学者である野矢茂樹の議論に依拠しているものである。野矢はウィトゲンシュタイン独我論を踏襲し、それを足掛かりとしながらも、そこから離反するように心と他者の実在を模索する哲学者である。その姿勢はサクラノ詩と基本的に変わらないものと見てもいいだろう。1995年に出版された著作『心と他者』の前半部分では、素晴らしき日々で描写されたような反実在論的な懐疑論との議論が為され、知覚と幻覚の区別は不可能であるとするような現象主義への批判や、私の意志や他者の痛みといった個人の経験は共有することができないというような意識の私秘性への批判が展開される。そして「私の心」というおおよそだれもが持っているであろう常識を否定し、「私は世界である」という独我論的な前提から再出発して、後半の心と他者の在りかを模索する議論へと移行する。その再出発の地点は、素晴らしき日々の終わりから、サクラノ詩のはじまりへの移行と対応しているものと考えることもできるだろう。本稿における出発点もまたそれと同じくするために、前半部分で扱われた知覚や感覚における諸問題には軽く触れる程度にとどまり、私の心という閉ざされた世界から解放された感情、意図、思考、言葉の意味などを語りつつ、心とはなにかを模索していく。では、まずは出発点である独我論的世界の導入からはじめよう。

12 懐疑の焦土

「私には私の心があるということを知っている」と、ある人が言う。私が現にこうしてなにごとかを考え、なにかを感じているのだから、私に心がないなどとは言えないはずだ。同様に、他の人にも心があるといえそうだが、しかしいくら観察し、対話を重ねてみてもその人が見ている風景も痛みも本音も、本当にそこにあるのかどうかは分からない。しかし他人はともかく他ならぬ私の心なら確かに実在している。それだけは確実に言えそうだ……。
 一口に独我論と言ってもいくつかの種類がある。ウィトゲンシュタイン独我論は、先の人が言うような心と自然を分断した上に成り立つ密室のような世界ではない。意志、感情、思考はすべて世界へと開け放たれ、私の心は消失し、私は世界となる。それと同時に他者の心もまた消失する。かわって現われるのは私の世界とは異なる世界、異なる風景である。そしてそれが現われず、かつ独我論を徹底するならば、世界は純粋な実在としてその姿を現わす。

 独我論的世界は私の心を表わすものではなかった。痛みも恐れも悲しみも、そこでは端的に世界についての描写なのであり、それゆえ独我論的世界は<無心の世界>にほかならない。とすれば、問われるべきはもはや「他人の心」ではなく、「心」そのものにほかならない。無心の世界にいかにして心が登場しうるのか。すなわち、たんに心なき描写をするだけでは済まず、心ある描写が為されねばならないのはなぜなのか。これがわれわれの問題なのである。
――『心と他者』144p

 野矢にならい、ウィトゲンシュタイン独我論を、通常の独我論と区別するためにここでは「独我論的世界」と呼ぶことにする。梯子が投げ棄てられた場所の風景とは、この心なき独我論的風景のことにほかならない。無心の世界と言われているように、その世界には心がない。その世界は心と自然、事実と価値の峻別を撤廃したが、しかしそれだけではかえって心と他者を見失っている状態である。人は人である限りそこに立ち止まっていることはできない。なぜならだれもがするように、なにかに疑問を持ったとき、あるいは意見や価値観の相違を知ったとき、あるいは反感や違和感を言葉にしたとき、その瞬間に、独我論的世界の沈黙は断たれ、われわれは心と他者の喧騒のなかを歩まねばならないからである。

13 蝶番命題

 心と他者を模索するまえに、足場となる独我論的世界について留意しておくべきことを確認をしておこう。
 後期のウィトゲンシュタインは前期の思想が集約された『論理哲学論考』の間違いを認め、『哲学探究』を中心にその改訂を試みた*1。しかし、それによって論考のすべてが否定されたわけではない。少なくとも、「独我論を徹底すれば純粋の実在論となる」という根底にある思想信念はいっさい変わっていない。だからここでは論考の独我論に加えて、後期の哲学探究と晩年の確実性についての言及も、等しく独我論的世界を説明するものとして扱っていく。
 まずはわれわれの認識や言葉の使用、行為その他生活に関わるあらゆるものを支えている「規則」と呼ばれるものと疑われていないたしかな事実が、「私」とされること、つまり「世界」とされることを引用とともに確認しよう。

 規則に従っているとき、私は選択をしない。
 私は規則に盲目的に従っている。
――ウィトゲンシュタイン哲学探究』219節

 どんな事実も確かとみなさない者にとっては、自分の用いる言葉の意味もまた確かではありえない。
 すべてを疑おうとする者は、疑うところまで行き着くこともできない。疑いのゲームはすでに確実性を前提にしている。
――ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』第114-5節

 われわれが問い立て疑いを発するには、ある種の命題が疑いを免れ、いわば問いや疑いを動かす蝶番の役割を果たしていなければならない。
――『確実性の問題』第341節

 ウィトゲンシュタインの後期の思想である規則についての盲目性、そして晩年における確実性、それらはわれわれの生活上のルールや暗黙の了解といったもの、たとえば「ここに手がある」といった疑いえない事実や、歩いたり食事をしたりといった自動化された行為などのすべてが、実践の枠組みとして実在を成すことを示している。そして、日常における些細な疑問でも哲学上の難問でも、それらを問い立て、考え、結論を導くためには、それらを支える基盤がなければならない。無数の蝶が無限に広がる可能性の世界に羽ばたくのだとしても、疑いを免れている命題が、それを支える蝶番の役割を果たしていなければならない。たとえ可能な限りのすべてを疑うのだとしても、独我論的世界には実在たる足場がたしかに根差している。

14 私の裏側

 誤解されやすい「私は世界である」という言葉に注釈をつけておきたい。「私は世界である」という主張の受け入れがたさは、実際の日常会話の場面で使われる「私」という言葉を、自分自身を指し示す一人称の役割を持つものとして使い慣れていることにあると思われる。独我論的世界における私とは、端的に自己を指示するものでも、他人が言う「私」とは異なる「ここにいる『私』」なるものの特権性を表わすものでもない。私とは、「私はいま文章を書いている」というような視点者についての描写や、あるいは口頭でだれかと話し合う際などの他人との言葉のやり取りにおける便宜的な使用の表われでしかない。学校であれ会社であれ、人となんらかの形で関わり合う際に私という言葉とその意味は人称的な機能を果たす。しかしそのような場面においても、あるいはいついかなるときにおいても、けっして姿を現わすことがない私というものが存在する。そして、姿を現わさないからこそそれは私と呼ばれるのである。われわれが普段の生活のなかで注意を向けていないもの、あるいはは疑っていないもの、地球が自転していることや夕焼けが赤いということ、明日もまた今日と同じような日になるだろうといったことや人はいつか死ぬということなど、その他あらゆるもの、総じて世界をこそ、私である、とするのである。そしてその私こそが、独我論的世界であり、心なきものなのである。

15 奈落の猫

 ここまでに導入された独我論的世界観を踏まえたうえで、サクラノ詩に登場する伯奇という存在について考えてみる。
 伯奇には「心がない」とされている。たしかに千年前の中村家を訪れた巫女装束の伯奇は表情に乏しく、口数も少ないために、感情が欠落しているような印象を抱かせる。しかし「心がない」とは悲しみを感じることがないとか、笑うことがないなどの通常の意味で言われているのではなく、独我論を徹底した無心の世界としての「心がない」という状態なのである。世界として私は、なにも疑うことなく、心と出会うことなく、ただかくあるべく生活している。たとえその人がよく語り、よく歌い、よく踊るものであったとしても、自分とは異なる世界、異なる規則と出会うことがなければ、やはりその人は「心がない」と言われなければならない。そうであるならば、「心とはなにか」と問うとともに「心がないとはどういうことか」と問わなければならないだろう。独我論を徹底した先には素晴らしき日々が示した幸福がある。しかし、人として生活しているわれわれが、人並みの生活を許されていない伯奇を見ても、そこに幸福な生を見て取ることはできない。しかし当の伯奇にとってはそれ以外の生を知りようが無いのだから、その沈黙が破られない限り、彼女は幸福なのである。
 伯奇は自らを縛る「方相の禁」に盲目的に従っている。そしてそれと同じように、われわれもまた、それぞれの日常における規則に盲目に従っているという点では伯奇と同様である。しかし「常にではない」という点で決定的に異なっている。方相の禁とは“儀式の時以外は、見ないこと、聞かないこと、話さないこと”を規則とするものである。われわれはこの異様な生活様式に疑問を抱かないわけにはいかないが、しかし規則に忠実な実践者である当の伯奇は、その異様さに気づくことはできない。しかし彼女の物語は、すでにその沈黙を破る夢の音からはじまっている。

16 目覚めと夢見

 私が青空の空気力学的挙動を疑っているとき、大地に立っていることは疑っていない。私が規則に盲目的に従っているとき、生きる意味について考えたり、言葉の意味や規則を問うことなく生活している。ウィトゲンシュタインはそのことを「目覚めている」ことにたとえ、それにたいして、心が現われることを「夢を見る」ことにたとえる。

 意味が心に浮かぶことを夢になぞらえるならば、われわれは通常夢を見ることなしに語る。「意味盲」とはそのとき、いかなる時も夢を見ることなく語るものであると言えるだろう。
――ウィトゲンシュタイン『心理学の哲学1』第175節

「意味盲」とは言葉の意味を問うことなく言葉を使用するもの、と想定された存在である。意味盲は規則を問うことも言葉の意味を問うことも絶対にしない、つねに盲目的な実践者である。つまり、意味盲とは伯奇と同じく、心なきものとして存在するものであるし、逆に言えば、伯奇は意味盲として想定された存在であると言える。
 われわれはたしかに疑うこと以前に、実践としての足場を持っているが、しかしときには自分が立っている足場をも疑うし、それ以前に、なにひとつ疑うことなく一生を終えることは不可能である。しかし意味盲はそれを可能にする。比喩によってたとえるならば、われわれは目覚めと夢見を、つまり疑うことと疑わないことを生活のなかで繰り返しているのであり、それにたいして意味盲の人間はつねに現実に覚めているものとされるのである。
 素晴らしき日々の不穏な空に浮かぶ大きな目玉もまた、懐疑と盲目の比喩であると考えられる。一見するとグロテスクではあるが、なんてことはない、あの目玉は懐疑しているときは夢見の比喩として目を閉じ、疑っていないときには目覚めの比喩として目を開くという、ただそれだけのものである。サクラノ詩においても「夢」についての言及が多く見られるが、それらも畢竟、無心の世界に現われる心の比喩にほかならない。

17 地を潤す  常に目覚めているものとしての伯奇は夢を「見る」のではなく夢を「呑む」ことしかできない。それは覚めない夢が現実となにひとつ変わらないように、常に目覚めているものが見る夢は現実と変わりない。その目覚めから夢見へといざなうのが、伯奇が聞いた歌の音色と、義貞という異なる世界への興味である。しかし、独我論的世界では恋愛感情そのものを心と呼ぶのではない。発情期の猫が発情するのは当たり前のことであるように、私がだれかに恋心を抱いたのだとしても、それだけではまだ私の世界の出来事にとどまるのみであり、心が現われているとは言えない。だから、伯奇が義貞の声に惹かれ、その姿を目で追ったのだとしても、その場にはまだ心は現われていないのである。

 ではいかなるときに心は現われるのか。答えのひとつとして、「規則に従っているか否かの評価に現われる」ということが言えるだろう。だれかに規則に従っているか否かを評価され、それによって自らが盲目的に従っている規則の輪郭を自覚し、そこに留まるか、踏み外すかを迷い、選択する、そのときに心が現われる。だから伯奇が方相の禁を破り、枯れ木の丘で義貞と逢引きしようとするとき、そのときはまだ「規則を破っている」とは言えない。以下のように、義貞に「禁を破っている」と指摘され、それに応じて自問するところに、はじめて心は現われるのである。

「そういえば、夢張りの巫女は。喋る事、見る事、聞く事を禁じられていると聞く、だが、貴方は私と喋ったし、見たし、声も聞いた」
「それなら伯奇殿は全ての禁を破ってしまった事になる。何故、心を持たぬ貴方がその様な事をした?」
「分かりませぬ……」
「分からないと?」
「はい……」
 分からない。
 私には本当に分からない。
 何故、私はあの時に目をあけたのであろうか?
 何故、私はあの時に、彼の声に耳を傾けたのだろうか?
 何故、言葉を交わしたのだろうか?
 そして、何故、今、私はここに立っているのだろうか?
――ZYPRESSEN 義貞 伯奇

 心は私が従っている規則とは異なる規則との間に生じるものである。義貞の問いかけによって、伯奇は自らの行為に疑問を抱き、そして盲目的に従ってきた方相の禁という足場を疑いはじめる。その問いの先にあるものが無心の世界にはじめて生じた心なのである。そして伯奇はそこで得た心をもとに、義貞の属している規則へとさらなる問いかけを発していくはずであったが、しかしその先を見ることなく二人の物語は悲劇に終わった。
 伯奇から流れた血は、水となり雨となって地を潤す。そして、伯奇から生じた雨はそれまで彼女が呑み込んできた人々の心そのものである。そこにも目覚めと夢見の比喩がある。素晴らしき日々における雨雲は、果てのない青空への懐疑に蓋をする象徴として描かれていたが、たいして水や雨は、懐疑や心の象徴として現われる。雨は絶え間なく降り注ぎ、大地はそのすべてを受け取る。そこには目覚めと夢見の明確な線引きはないのだろう。

18 風景相

 A Nice Derangement of Epitaphs(以下、NDE)の過去編において、雫は琴子(夏目の婆さん)の死をきっかけにして心を失い「伯奇になった」とされている。その後に健一郎の手引きによって稟と出会い、稟が描く絵を毎日見続けることで心を得ていくのだが、ここで「心なきもの」として特に取り上げられなければならないのは雫ではなくむしろ稟である。独我論的世界における心なきものとは、ひとつの定まった意味や規則から、まったく外れることのないものを指している。たとえば幼少期の稟はこのような風景を見る。

 彼女は人の感情というものを愛していた。それがどんな汚いもの醜いものですら、愛していた。
 彼女にとっては、綺麗なものも、汚いものも、すべてが世界であり、描く対象だったのだろう。
――A Nice Derangement of Epitaphs

 稟が見る世界には「愛する」ということ以外の見方がいっさいないために、心がないとされなければならない。他の人にはその神のごとき博愛を、たとえば呪いとして見ることもあるだろうし、残酷なものとして見ることもある。しかし当の稟にとってあらゆる人の感情というのはただ愛する対象であり、描く対象でしかないとされている。ウィトゲンシュタインはそのような、なにかをなにかとして見ることを「アスペクト」と呼び、それができないものを「アスペクト盲」と呼んだ。

 このようにあるいは他のように見えるといういささか奇妙な現象は、視覚像がある意味で同一のままであるのに、「見方」とでも名付けうるようななにものかが変化しうることを人が見て取ったときはじめて現われる。
 私が自分のまわりの諸対象に見入っているとき、私はそれらを見る見方のようなものがあることは意識してはいない。
――『心理学の哲学1』第27,29節

 われわれはそれが変化するときにのみ、アスペクトを意識するようになる。
――『心理学の哲学1』第1034節

 何かを何かとして見る能力の欠如している人間は存在しうるだろうか。――そしてそれはどういうことなのだろうか。その結果どういうことになるのか。――この欠陥は色覚異常絶対音感の欠如に比することができるのか。――われわれはこの欠陥を「アスペクト盲」と呼ぶ。
――『哲学探究』213p

 われわれは異なる世界との出会いの場に生きている。自分とは違う見方、捉え方、意味、規則に出会うたびに私ではないなにかに驚き、立ち止まり、そして問いかける。アスペクトに気づくことは、すなわち心に気づくことである。ウィトゲンシュタインアスペクト概念を想定しながらも、それを失っても「たいしたものは失わない」とした。それはつまり、心や他者と出会うことのない無心の世界でもたいしたものは失わないだろう、ということを言っている。しかし本当にそうなのだろうか。アスペクト盲であり心なきものである稟は、あらゆるものをただ愛するという単相のもとにしか世界を捉えることができず、その自身のあり方を呪いとして見ることも残酷なものとして見ることもできない。それは素晴らしき日々において、夜空を見上げながら由岐が感じていた愛と祈りに満たされた世界に類似する。そのようにしてすべてをひとつの相のもとに見続けることは意味盲として、あるいは動物として生きることと変わらない*2。由岐が言った「すべての動物は幸福である」という言葉の所以はそこにある。苦しみも痛みも虚しさも、自分が見ている世界の意味以外のものはなにひとつ存在せず、ただかくあるものとしてしか見ることができない。動物の世界には心も他者も存在せず、みな沈黙のなかで幸福に生きている。心なきものとしての稟もまた、語りえぬものとともに幸福に生きている。しかし、それは人として生きるものの幸福であると言えるのだろうか。

19 骸と天使の廻天

 異なる見方、異なる世界を捉えることができないアスペクト盲である稟が、死んだはずの母親を生きているものとして扱うとしたらどうなるのか。まわりの成熟した人々は稟の母親の死を認め、稟が車いすに乗せている人形が母親であるという誤解を正そうとするが、稟はその事実を認めようとはしない。アスペクト盲にとっては自分が見ている世界がすべてであり、その他の異なる見方に立つことができないために、幻覚や妄想などと事実を区別することができないのである。そしてアスペクト盲であるということは同時に、自らが使用する言葉の意味を自覚することができない意味盲でもあると言える。だから、稟が「見る」という行為と言葉によって母親の死に与える意味は、その他の意味や見方との関係から外れており、したがって稟の与える意味が変化するのであれば、それは見方が変化するのではなく、世界そのものが変化するとされなければならない。

 われわれならば「誤解を正す」と記述する現象は、意味盲にとってはある正しい理解から他の正しい理解への変化として記述される。すなわち、アスペクト盲においてはアスペクトの変化がまさに物の変身とされたように、意味盲においても、意味理解の変化は端的に意味そのものの変化とされるのである。
――『心と他者』314p

 ユーザーにさまざまな疑問をもたらしながらも「どうせフィクションだから」という理由で容認されそうな、千年桜による奇蹟や稟の具現化能力にあえて思想的な根拠を求めるならば、上記のように見方が喪失されて意味そのものが変化するようなアスペクト盲=意味盲の世界が想定されるだろう。心なきものにとっては超常現象のみならず記憶や過去の出来事ですら、もうひとつの世界として存在しえる。つまり「母親は死んでいる」という事実とは異なるもうひとつの事実が、稟の世界として作り上げられてしまうのである。これは稟が記憶を失ったあとに生じた吹という存在そのものについても同じことが言える。吹は伯奇となった雫にしか見えない。それはつまり、他人とは異なる見方に立って見ているのではなく、事実そのものの歪みによって生じたアスペクト盲の産物であると考えられる。また、『櫻達の足跡』によって街の人々にも吹が見えるようになるが、それもまた見方の変化ではなく、もうひとつ世界として認識されていると考えられる。そして吹がひとつの相のもとにしか存在できないのであれば、雫が直哉との関わりによって心を得て、さまざまな相のもとに立てるようになったとき、あるいは、心を揺さぶる大きな出来事が起きたときに、吹は存在することができなくなるのである。

20 墓碑銘無き音楽会

 ここまでは主に「心がないとはどういうことか」について考えてきたが、ここからは「心とはなにか」について言葉と意味との関係を中心に考えていきたい。しかし、そのためにはウィトゲンシュタインが導入したアスペクトの概念では「心」を捉えるのに窮屈である。そこで、野矢にならってよりゆるやかな意味での「相貌」という用語を用いることにする。場合によっては「相」や「見方」という言葉も使用するが、基本的には相貌と同じ意味の言葉として扱っていく。
 独我論的世界における心のすべては、相貌ととも現われると言っても過言ではない。相貌はわれわれが普段何気なく使用している「意味」という言葉の意味に深く関わっている。しかし相貌はすべての意味に関係しているわけではない。たとえば、世界が存在しているという事実、または自然現象が物理法則に従って規則的にふるまっていることなどは意味とされるが、しかしそのような自然的な事実には相貌は含まれていない。相貌とはいささかも世界や自然といった対象ではなく、ゆえに対象に心が宿っているというふうに考えるのは誤りである。相貌は対象そのものではなく、対象を捉える人の認識とともにもたらされる。相貌は概念、記述、思考、感情、価値、技術、意図、痛みの捉え方などを与えられた経験的な事実として現われるものである。例として、幸福や悲しみ、醜美として現われる相貌を挙げてみよう。

 世界は、どんなに悲しい瞬間でも美しく。そして、どんな幸福な瞬間でも醜い。
 そういうものだ。
 だから、俺達が生きる世界には、意味と意義がある。
――V

 意味とは世界そのものであり、意義は経験されたものである、というような区別はここではしない。意味とは事実であり意義とは醜美や価値という概念を表わしている、という区別もしない。というより、それは誤りである*3。事実と価値、自然と心は循環していて、その限界を明晰に規定できないのであれば、それらはすべて意味とされなければならない。ゆえに悲しいという感情を美しいものとして捉えることや、幸福という概念を醜いものとして捉えることには世界の相貌が現われていると言えるが、それは同時に意味の一側面を表わしたものであり、経験されたものでもあり、世界そのものであるとされる。また、悲しい瞬間や幸福な瞬間といったことがらには、醜美の相貌のみならず、記述による概念操作、感情の制御や理由付け、倫理的な態度などによって多種多様な相貌が現われうる。しかし醜も美も、そして価値も、それが単一のものであるか、あるいは盲目的に従っている規則に与えられたものに限られるならば、それは意味としての相貌であり、意義としての相貌、つまりは心としての相貌ではありえない。
 われわれは通常、あらかじめ決められた相貌か、または単一の相貌のもとに対象やできごとを捉える。それはウィトゲンシュタインが言うように「見方」と名付けられるようなものではあるが、しかし自分とは異なる見方があることは、個人差はあれどそれほど意識していない。われわれは稟のようにつねに単一の相貌によってのみ世界を眺めているわけではなく、ときに単一の相貌のもとに世界を眺め、ときにそれとは異なる相貌を交えて世界を眺める。そのように自覚されていない相貌とは異なる相貌として生じるもの、それこそが意義であり、心と呼ばれるものにほかならない。
 ある対象を美しいと感じることが当たり前であったり、疑う余地のないものであるというのなら、そこには相貌としての「美」は存在しない。直哉が「世界は、どんなに悲しい瞬間でも美しく。そして、どんな幸福な瞬間でも醜い」と独白したとき、そこにはたしかに相貌としての美があり、意義がある。また、いつかの直哉が「人は、一番うまくやっている時、一番まともな時が、一番クソなんだよ」と言うとき、あるいは「不幸なんて苦痛は、幸福と背中合わせでしかない」という言うとき、そこには快楽としての幸福ではなく、相貌としての幸福がある。
 サクラノ詩において、心、相貌、意義は同じものであり、また、美、幸福、そして弱い神と呼ばれるものも同じ概念である。われわれが異なる相貌に気づくとき、それまでの意味とは異なる新しい意義を見つけたとき、その瞬間に心は現われる。そのために、心とはなにかという問いにたいしてはひとまず「意味の違いに現われるものである」と答えることができる。しかしそれだけではまだ答えの輪郭が不明瞭である。ならばなにを問うべきだろうか。「意味とはなにか」、それについて問い直せば、意義と呼ばれるものがなんであるかが浮かび上がってくるのではないだろうか。
 多くの場合、意味というものをもっとも反映しているのは言葉である。言葉は意味を明晰に切り取る。心が意味の違いに現われるというのなら、言葉と言葉の間に生じるわずかな差においてもっとも明確に浮かび上がるのではないか。そうであるならば、「言葉とはなにか」という問いは「意味とはなにか」という問いと密接に関係しているはずである。だからここからはひとまず意義についての問いは保留にして、言葉と意味の関係を中心に考えていきたい。

21 ジャバウォック・ゲーム

 言葉の意味はどこにあるのだろうか。われわれは言葉を使用するとき、その意味を規定する規則に盲目的に従っている。独我論的世界は無心の世界ではあるが、その背後には実践の枠組みとしての規則が存在する。だから、どのような言葉でも意味をもつ限りはなにかしらの規則に従っているはずである。そしてなにより、独我論を徹底しているのであれば、私の心の内側にある言葉の意味など存在しえない。まずはそのことを確認するために、卵型の風変わりなおじさんに登場してもらおう。

「おれが言葉を使うときにはな」、ハンプティ・ダンプティは人を小馬鹿にした調子で答えました。「それはおれが言おうと思ったことを意味するんだ。それ以上でも以下でもない」
(中略)
「そう、粘滑とは、滑らかで粘っこい様子のことだ。この言葉は旅行カバンみたいだろ? ふたつの意味が、ひとつの言葉に詰め込まれているのさ」
――ルイス・キャロル鏡の国のアリス

 ナンセンス詩の最高峰と言われる『ジャバウォックの詩』、あらゆる解釈を可能とするこの詩にたいして、ハンプティ・ダンプティは自分が決めた意味を一方的に押し付け、他人によって解釈された意味には見向きもしない。
 たとえば彼には、「粘滑とはおはようという意味である」とすることもできるし、「粘滑とはノートゥングである」というだれにも理解されないような意味を与えることもできる。もしわれわれの目の前に「
粘滑!」とだけ言うものが現われても、それがあいさつを意味する言葉だとは分からないだろうし、またある人に「わたし、今日はノートゥングなの」と言われても、やはり意味不明でしかない。しかし、ハンプティ・ダンプティはだれに解釈されずとも自分が決めた意味は唯一の正しい意味として規定しようとするのである。そのような純粋に自分の内側に秘匿される意味を指し示す言語をウィトゲンシュタインは「私的言語」と呼び、それは他人と共有される実践の枠組みから外れた言葉の使用であるとして批判した。ハンプティ・ダンプティの私的言語について、間違いを指摘できるものはいないし、その正誤を評価する基準となる規則も存在しない。ゆえに、彼の言葉には誤りがない。そして誤りがないということは、つまり正しいということもないのであり、もはや私的言語が言葉として成立することは不可能なのである。*4

22 非誕生日のバースデー

 意味が心のなかにないのだとしたら、一般観念としての意味はどうだろうか。ある対象のすべてを言い含める抽象的で、本質的な意味が存在していて、われわれはそれについてできるだけ正確に把握するために、言葉によって定義し、論証し、結論付けようとする。そのようにして、使用される言葉と一致するような抽象的な一般的意味などあるのだろうか。ウィトゲンシュタインはそのような一般観念としての意味の存在を否定する。たとえば、「名誉」という言葉の一般的かつ本質的かつ客観的な意味とはなんだろうか。まずは私的言語の使い手であるハンプティ・ダンプティならこんなふうに決めつける。

「おかしいと思ったよ。さっきも言ってたように、間違いなくやれてるようだな……いますぐには、徹底的に調べる暇はないがな……これで、おまえが非誕生日のプレゼントをもらう日が、364日あることが証明されたわけだ……」
「確かにそうね」アリスは言いました。
「誕生日のプレゼントをもらう日は、ただの1日だけだ。これはおまえの名誉である!」
「≪名誉≫って、なんのことなの?」アリスは言いました。
 ハンプティ・ダンプティは軽蔑するように笑いました。「むろん、おまえなんぞには分からないさ……おれが教えてやるまではな。おれの言う意味はな、≪エレガントな圧倒的議論≫ということさ」
――ルイス・キャロル鏡の国のアリス

 当然ながら名誉の意味は個人が所有できるものではないし、頭のなかに収まっているわけでもない。人がなにを名誉と感じるのか、それは価値観の多様性とか相対主義という言葉でそれぞれの人がその意味を個別に持っているかのように説明されるが、それだけならばハンプティ・ダンプティのような極端に恣意的な言葉の使用が許されてしまうだろう。では一般観念としての名誉はどうか。この言葉を正しく使用するためには、まずは正しい意味を把握しなければならない。サンプリングのために、世界中の人に「あなたにとって名誉とはなんですか」と聞いて回り、集めたデータを集計して一番多かった回答を抽出する。それがすなわち一般観念である。そんなわけがない。では集めたデータのすべてをもって、一般観念としよう。それもできない。
 これは名誉のような概念的なものではなく、感覚的にとらえられる「植物」や「色」などについても同じことが言える。その言葉の正しい意味があらかじめ用意されていて、それを把握することによって正しく言葉を使用するということは、そもそも一般観念なるものがまったく不明確であるためにできないのである。
 では、言葉と意味の一致不一致は、なにによって定められるのか。それはわれわれが盲目的に従っている規則である。

23 世界模型

 ここでもう一度、独我論的世界における規則について確認しておかなければならない。われわれは普通に生活しているとき、無心の背景としての規則に盲目的に従っている。そしてそれは、言葉を使用するための規則についても同じことが言える。われわれが言葉を使用するとき、それがどのような意味なのか、またはその文を構成するひとつひとつの語がどのような意味なのかをいちいち疑うことなく、いわば「なめらか」に言葉を使用している。しかし自分か対話している相手が「それってどういう意味?」とか「心ってなんだよ」などと尋ねるとき、会話の流れは断たれ、それまで暗黙のうちに使用されてきた言葉の意味が問われることになる。だが、そうして問われる以前に、言葉の意味はわれわれがそれぞれの属する実践の枠組みとして存在しているのである。ウィトゲンシュタインはそのようなよどみない会話と共同体の枠組みの総体を「言語ゲーム」と呼んだ。ウィトゲンシュタインならば言語ゲームという枠組みこそが独我論的世界の枠組みそのものであると言うのだろうが、しかしゲームは私が従っているもののひとつのみが存在するわけではない。われわれは私が従っている規則のほかに、異なる世界、異なるゲームである「他者」の存在を見て取ることができる。
 街を見渡せば、私しかいない広漠たる世界に人のかたちをした群れが蠢いている。それらは等しく私の世界を構成する要素である。ではその肉の塊たちを他者と呼ぶのか。いや、どの肉塊もそれだけでは心なきものでしかない。

 確かにわれわれは同じこの世界に住んでいる。しかし、必ずしも同じ意味のもとに住んでいるわけではない。いわば、「意味の散乱」が起こっているのである。感情も思考も意図も、それが他者の不透明性を顕わにし、心という領域を出現させるには、その根底にこうした意味散乱の現象があるのではないだろうか。そしてもしそうであるならば、他者とは、わたしには覗きこめぬ内界のことではなく、私には理解しきれない、わたしとは異なる意味秩序のことにほかならない。
――『心と他者』212p

 言葉がたんなるインクの染み、たんなる音声ではなく、意味をもった言葉となるのはなぜか。そして、心なき肉塊が心をもった人となるのはなぜか。それは私がある規則に従い、そしてその私と同じように、異なる規則に従っているなにものかが姿を現わすからである。私が使用する言葉にはたしかに意味が存在するが、しかしそこには心も他者も存在しない。言葉は、私とは異なる規則に使用されることによってはじめて心あるものとなり、それに応じて他者もまた心あるものとして浮かび上がるのである。
 言語ゲームは私が属する規則以外にも無数に存在する。そして、ゲームの数だけ他者の存在可能性がある言えるだろう。しかし、それはあくまでも異なる規則として私の前に現われた場合にのみ他者として存在するのであり、その状況以外では透明な背景として無心の世界に溶け込んでいる。そしていざ他者が登場したならば、われわれは自分が属する共同体のなかでのみ共有されている規則を自覚し、それを維持するか改訂するかの運動に導かれていくのである。しかし、ウィトゲンシュタインは自らの思想信念のために、属するゲームの外側に異なる意味を有するゲームが無数にあることを認めながら、なおもひとつのゲームの内側でのみ行われる言葉の使用に執着した。「規則は語られえず、示されるのみである」、この言葉はまさに、ひとつの規則に盲目的に従うことで、言葉の意味や規則についての問いのいっさいを封じることを宣言するものであった。しかしそれは同時に、心と他者の模索の放棄を意味する。

24 箱庭の神話

「幸福な意味盲」なる存在を考えてみよう。彼は生まれつきの本性が十分なものであるため、いっさいの教育を受けることもなく社会の慣習に従い、規則に従う。そしてけっしてそれらの諸規範に背くことなく、また、新たな約束事が入りこむこともない。さらに彼を無菌状態におくために、幸福な意味盲たちだけの集落を作ろう。そうして彼らは、他人の誤解や過ちを糾弾することからも無縁となり、完璧に単相的な世界を実現する。われわれの目からすれば、彼らは完璧に規範に従っている人々であり、いわば「則天去私」の集団である。
――『心と他者』327p

 ただひとつのゲームを共有する共同体とはこのようなものである。そしてこの世界こそがウィトゲンシュタインが夢想したであろう意味と規則についての沈黙の世界である。それは伯奇や幼少期の稟と同じように、心なきものとしてつねに規則に盲目的な実践者の世界にほかならない。しかしそれは本当に「規則に従っている」と呼んでいいのだろうか。意味盲たちは端的に、かくふるまう。そこには迷いも選択もない。それは惑星が規則的な運動をすることや、春になれば桜が咲くといった自然現象の規則性となにひとつ変わらないのではないか。そうであるならば、意味盲の世界はわれわれの生活を支えている規範性そのものを失っているのではないか。

 規範性はただそのゲームに参加する実践者の観点に立つことによってのみ、示されうる。言語ゲームの外からデータを集め、理論化するという作業によって明らかになるのは、相手の行動の規則性でしかない。そして規則性と規則に従うこととは異なっている。規則は、その規則に関与しているものにのみ、示されうるのである。
――野矢茂樹『哲学航海日誌』374p

 ここで「規則的にふるまう」ことと「規則に従う」ことの区別、そしてそれに応じて「規則」と「規範」の区別を導入したい。規範を自然的事実に還元しうるか否かという昔からある哲学問題に、野矢は極めて悲観的な見通しをもっている。たしかにわれわれが従っている社会のルールや道徳といったものは自然と切り離されているものではないが、しかしそのものではない。それはある規範の言葉の使用とその意味の総体である言語ゲームについても同じことが言えるだろう。言葉の意味は自然的事実に還元できるものではないし、言葉のようにふるまっている文字や音声というものは、そのじつ言葉として成立していない。つまり意味盲はつねに規則に従うことで、規範も言葉も失っているのである。
 断っておくがこれは言語ゲーム自体を否定する議論ではない。これはあくまで意味盲におけるゲームと規範性の無化についての批判である。言語ゲームがたしかにわれわれの足場を支える規範として存在していることは間違いない。しかしわれわれが他者と出会い、心を発見していくしかない交流の場で生活しているのであれば、ゲームはよどみ、その輪郭を変貌させ、そして新たな規範へと再構築されていくだろう。人として生きるのであれば、それは避けられない命運である。

25 意味の意味

 幼少期の稟や雫は意味盲であるか。たしかにその傾向はあるが、しかし完全にではない。とくにふたりが出会ってからは、互いを「他者」として立てることによって、心を与えあっていたように思われる。千年桜の奇蹟以後、雫は伯奇となったが、その後もやはり吹や健一郎とのかかわりによって異なる見方と出会っていったのだろう。だからはじめて直哉と顔を合わせたときにはすでに対話における相手の発話の意味に疑問を抱き、問いを発するということができていた。だからサクラノ詩の本編からおよそ三カ月前の時点での雫は、意味の様相を喪失している意味盲ではない、心や言葉の習熟に未発達な「子ども」として見ることができるだろう。ここで言う子どもとは、その言葉通りに未成年者を表わすものではなく、言葉の使用に熟達した「大人」にたいする、言葉の使用を教わるものとしての「子ども」である。そのために、実年齢からすればすでに大人であるとされる人でも、教えるものと教わるものの関係においては、子どもの立場になる可能性をつねに持っているが、過去編における直哉と雫の関係は、立場が逆転することなくほぼ一方的に言葉を教えていくという単純化されたモデルになっている。しかし一方的な関係とはいえ、教える側も、教えている言葉の意味に疑問をもち、その正誤を評価するかぎりにおいて、意味の相貌を発見することになるだろう。その場合言葉の使用を教育する場面は、親子双方にとってきわめて心的であると言える。

26 トイ

 親が子どもにたいして言葉の使用の仕方を教えているとき、その言葉遣いを評価しつつ、誤りを指摘し正しい言葉遣いを教える。その教え方はさまざまであるが、親はまず、その言葉の意味を言葉のみによって説明するのではなく、身の回りにあるものや自分の身体などを使って説明しようとするだろう。そしてそのような場合、言葉の学習は記述的なものではなく身体的な訓練として現われる。

「床オナニーとはどんなものでしょうか?」
「あ、ああ、実践してやろうか?」
「こうやってだな、床にうつぶせになるんだよ」
「ほ、ほぅ。こうやってうつぶせに……」
「って、お前もやるのかよ!」
「はい、参考のため。ここからどうするのでしょうか?」
「こ、ここからだな……。こうやって押しつけて……」
「押しつけて……、どこを?」
――A Nice Derangement of Epitaphs 雫 直哉

 このようにして親は子どもの言葉の使用を訓練し、それを評価する。子どもはそれによって語の意味を学び、それに関連してやって良いこととやってはいけないこと、やらねばならないことを学び、親と共通する言葉の意味を学んでいくのである。そして言葉の学習において、子どもはたんに言葉を覚え、使用するだけではなく、評価するものとして成長していく。

「床オナニーはやめてください」
「い、いきなりそんな話かよ!」
「はい、その後、私なりに調べてみたのですが、あれは良く無いという結論に達しました。性欲処理をするにしても、正しい性処理を推奨するものです」
――A Nice Derangement of Epitaphs 雫 直哉

 こうして子どもは親が知り得ない正しい規範を語り、そしてそれに従うように言い含めるようにもなる。そういう場面において教えるものと教えられるものの立場は入れ替わり、親も子どもも学習と評価の二重の観点を生きることになる。そして子どもはより多くの語を意味を問い、使用を評価する枠組みを学んでいくことで、親が開いているゲームと多く共通する足場をもちながら、異なるゲームにも参加していくのである。

27 アレクサンドラ・チキン

 一度言語ゲームから離れて、言葉の意味を「解釈」という観点から捉えたデイヴィドソンの議論のさわりを紹介しよう。だがその前にデイヴィドソンの言う解釈とはどういう意味なのかを簡単に整理しておきたい。
 解釈とはその言葉がどういう意味で使用されているかを理解することである。それは私的言語のように意味を一方的に決めつけるものではない。解釈とは話し手自身ではなく、その言葉を聞いているだれかによってしかされないものである。
 たとえばアレクサンドラが「チキンで北京ダックを作る」と言ったとしよう。そしてよく聞いてみると、アレクサンドラは「チキン」であひるのことを意味しているらしい、そう聞き手が解釈する。するとアレクサンドラの意味理論では「チキン」はあひるを意味する、ということになる。その使用が正しいのか間違っているのかは関係ない。ともかく、「フェネック」だろうが「バールのようなもの」だろうが、聞き手に理解されたのであればその通りの意味として成立する。それを「どう見てもバールだろ」と解釈したのであればそれ以上の意味はないし、「もういいよフェネックで……」と解釈したのであればそれはフェネックなのである。そして、もし解釈されなかった場合、つまり理解不能とされた場合、それはそもそも「言葉」ではないとされ、それとともに意味もまた存在しないとされる。つまり、なにが「言葉」なのかは解釈するものの独断によって決定される。

28 墓標命題

 1986年にデイヴィドソンが発表した論文『墓碑銘のすてきな乱れ』における要旨を短くまとめれば次のようなものになる。

 発話の意味は解釈されているその場においてしか存在しない。
「理解されない言葉」とはそもそも言葉ではない。言葉は受け手に理解されたとき、はじめて「言葉」として存在する。
 原則として言葉の使用は一回的なものであり、その度に意味は新しく作られる。
 発話の意味を体系的に引き出してくるような規則は存在しない。

 言葉の意味が規範の上に成り立つものである以上、これらの主張を鵜呑みにするわけにはいかない。野矢はデイヴィドソンの議論が意味理論の改訂の運動としてのコミュニケーションの姿を捉えたものだとして、そこにいくつもの重要な洞察が含まれていると語るが、しかし「解釈」という観点からコミュニケーションを捉えたとき、規範的側面がまったく抜け落ちてしまうものとして批判する。そこにはわれわれの足場を支えている疑われていない常識や生活上の取り決めなどを一顧だにせず、あらゆる場面で言葉の意味が恣意的な解釈によって決まってしまうという混沌とした状況が与えられるだけでしかない。そこで使用された言葉にたいして、分かるか分からないか、ただそれのみが問われているのであり、そして分かるのであれば、その解釈されたとおりの意味しか存在せず、したがってそれが唯一の正しい意味とされる。しかし正誤の評価ができない言葉などそもそも言葉と呼べうるようなものではない。言葉の意味には、その背後になにかしらの規範があってはじめて正しさと誤りが生じうる。そうだとすれば、やはりわれわれは然るべき規範に従いつつ、ときには異なる規範と交流しながらも言葉を使用していくほかない。
 とはいえ、デイヴィドソンの主張のすべてを否定するわけではない。とくに発話の意味が体系化されえず、改訂され、更新され、つねに生まれ変わっていくものであるという指摘は、私と他者が交流する場に生じる言葉の意味の絶えざる変化をよく言い表わしているし、また「発話の意味は解釈されているその場においてしか存在しない」などの主張における「解釈」についての考え方は規範を無化するものなので批判せざるを得ないが、おそらくそれはある特定の場面、つまり正誤評価を必ずしも必要としない場面においては正しい指摘であると思われる。そして言葉の意味が規範によってのみ示されるのではなく、解釈によって語られうるものであるとすれば、解釈によってしか存在しない、と言わないまでも「解釈によっても言葉の意味は存在する」とは言えるだろう。

29 古都を渡す箱船

 他者とは、私とは異なる意味秩序のことにほかならない。そしてそれはつねに静止した関係ではありえない。交流しているかぎり、私と他者は固定されえず、明確に線引きすることはできない。私はあるいは他者となり、他者はあるいは私となって絶え間なく循環している。そしてそれがもっともよく現われるのが、規範を言葉によって問い、解釈し、そして評価する場面なのである。

 言語使用そのものはウィトゲンシュタインが指摘したように「盲目的」なものにほかならない。そしてまたデイヴィドソンが主張するように場当たり的でもあるに違いない。だが、評価は場当たり的ではありえない。それは一定の秩序と、その秩序に対する一定の観点のもとにのみ、規範的力を行使することができる。
――『哲学航海日誌』370p

 言葉の習熟に未発達な子どもであり意味盲に近い存在として規範性が欠如していた雫は、まず言葉の意味をその通りの意味として解釈することしかできない。しかし直哉との関わりによって言葉を学んだ雫は、同時に直哉に類する規範とそれに基づく評価の体系を学ぶ。つまり、規範に背く行為にたいしてその間違いを指摘するだけではなく、賞罰を与えること、責任を取らせること、裁くこと、あるいは叱られることや褒められることの正当性を学ぶのである。そのような事情から「解釈」することと「評価」することは以下のように区別されなければならないだろう。

 解釈は規範を語るが、評価は規範を示す。
 解釈は意味を与えるが、評価は意味の相貌を与える。
 解釈に正誤はないが、評価には正誤が存在する。

 子どもの言葉の学習はまず解釈として現われるが大人はその使用の正誤を評価する。そして言葉の使用に習熟したもの同士の日常会話の意味は規範のうちに示されるようになる。前者の場合は解釈と評価の関係はある程度固定されているが、しかし後者の場合はきわめて流動的であり、たとえ言葉の使用に齟齬がなくなり、不備なく共同体の実践に参加できるようになったとしても、解釈は繰り返され、評価は積み重ねられるだろう。そして、そうすることによってしか規範は維持し得ないものであるし、ある特定の異なる規範が、ひとつの固有名と身体を持った人間としての他者と一致するためには、交流することによってその人の行いを評価し、それを積み重ねることによってしか、他者が特定の人物たりえることはないように思われる。

30 約束を量る

 約束とはある規範のなかで行われる新しい規範の取り決め、あるいは異なる規範の間で作られる新しい規範の取り決めである。つまり先行する規範がなければ約束が取り交わされることはありえない。言葉の使用の取り決めはたしかに場当たり的ではあるが、しかしそれがすべてではないし、だれかと交わす約束は、あらゆる人々がしてきた無数の取り交わしとの連関のなかでしか機能しない。もし約束が解釈されるだけのものであるなら、なにが「約束」であるのかはそれを解釈するものが一方的に決めつけられるものになるだろう。約束は評価とともにしか存在しない。そして、約束は交わしたときとそれを守っているか破っているかを評価されたときにしか示されないものである。

 ウィトゲンシュタインは「適用の場面において規則の把握が現われてくる」とは言っていない。「適用の場面に応じて『規則に従う/背く』と呼ぶことの内に」それは現われてくると言っている。ほとんど見逃されそうなところであるが、いまやこの区別は決定的である。規則に従っている場面において規則が示されるのではなく、「規則に従っている」と言うこと、すなわち、適用においてではなく適用の評価において、規則は示されるのである。
――『哲学航海日誌』155p

 NDE過去編の終わりに雫の親権の問題が解決されたとき、直哉はお礼として「俺の飯を食べてくれ」といい、雫はそれを了解する。ここにひとつの約束が交わされたことになるが、それは同時に「直哉の作った料理を食べる」という行為に、もうひとつの見方、相貌が与えられたことを意味する。あるいは、その場面は根本的には言葉の学習と同じく規範の形成過程を表わすものではあるが、しかし親が子どもにたいして一方的に教える場面ではなく、ふたりで新しい規範を作っている場面だと言える。そしてその後に約束が約束として示されるのは、以下のように雫が料理を食べて、それを直哉に評価された場合のみなのである。

「まぁ、どっちにしても喜んで食べてもらえるのはうれしいさ。
俺は、人に食べてもらうために料理をするのが好きだからな」
「うん……」
「てな事で約束は果たされたわけだ」
――op 直哉 雫

 その行いにたいして、約束を守っているか否か、正しいか否か、良いか悪いかという三人称的な評価がされないのであれば、ただ料理を食べるという約束に盲目的に従っているだけであり、約束が示されているとは言えない。そして評価というのは相手にたいして「あなたは規則に従っている」と言えばいいのではなく、通常では「良い食べっぷりだ」とか「食べてくれてありがとう」という言葉によって伝えられ、それによって約束は示されるのである。






「斑達の夢跡 下」に続く
http://d.hatena.ne.jp/tono_d/20160514

*1:論考においては日常言語が論理的に完結していて、記述文のみが世界の事実の像を成すものであると考えていた。それにたいして後期ウィトゲンシュタインは人と人の間の具体的な言葉の使用の実践に意味の源泉を見出そうとしている。

*2:素晴らしき日々独我論に他者は実在するとされているために、由岐は「つねに」単一の相のもとにしか世界を捉えられない意味盲(あるいは動物)ではありえない。由岐の単相状態は世界を受け入れるための倫理的な態度として示されている。

*3:フレーゲ的な意味と意義なら世界そのものと経験されたものに区別されうる。しかし独我論的世界を前提とするなら両者は区別されえず、どちらも意味とされなければならない。また、心、相貌、美、幸福、弱い神を意義としたのは、野矢の議論に依拠したものではなく筆者による独自の解釈である。

*4:私的言語についての詳しい議論は『哲学航海日誌』47p「逆転スペクトルの懐疑」を参照。