サクラノ詩 Sacraments Perception 上

一 櫻の洗礼
28 はがねの繭
27 二元論
26 一元論
25 素朴実在論

二 壊相の堅信
24 眺望構造
23 眺望点
22 複眼的構造
21 眺望地図
20 知覚的眺望

三 血塗相の聖体
19 知覚と感覚
18 身体状態
17 他人の痛み
16 同一性の懐疑
15 心身因果



一 櫻の洗礼

聖王たる法の王は 無量の(しゅ)を安慰したもう
『われ()滅度(めつど)せん時も 汝等は憂怖(うふ)することなかれ
この徳蔵菩薩は 無漏(むろ)の実相において
心已(こころすで)に通達することを得たるをもって その次に当に仏と作るべし
()()って浄身と為す また、無量の衆を()せん』と
仏、この夜、滅度したもうこと (たきぎ)尽きて火の滅するが如し
(もろもろ)の舎利を分布して 無量の塔を()
比丘・比丘尼(びく びくに)の その数、恒沙(ごうじゃ)の如きは
(ますます)また精進を加えて (もっ)て無上道を求む
――鳩摩羅什(くまらじゅう)妙法蓮華経序品(じょほん)第一』

28 はがねの繭

 虹は水滴のスクリーンに光が反射して生じる現象であるが、同様の言い方をするならば、バラの赤さもまた、バラの花びらで光が反射して生じる現象にほかならない。その意味では、私たちはふだんの光景において、いつだって、バラの赤さにおいて、木々の緑において、空の青さにおいて、七色どころではない多彩かつ微妙な色に溢れた「虹」を見ているといってもよいだろう。
――野矢茂樹『心という難問』182p

 確かに虹、スペクトルを知覚することはできるが、この場合も光を見ているのではない。太陽や月の暈、水面の光の輝き、さまざまな種類の閃光はみな、光の現われであるが、光そのものではない。我々が照明を見る唯一の方法は、ビームが当たることによってであると私は考える。我々は空気中の光とか空気を満たす光を見ることはない。もしこれらのことがすべて正しいならば、我々が見ているものは、環境ないし環境に関する事実であり、光量子や波長や放射エネルギーではないと主張するのは、まさに理にかなっている。
――ギブソン生態学的視覚論』59p

「きれいな虹だなぁ」
 雨上がりの青空にかかる虹に向かってそう言ってみたとき、私はその虹が、私に認識されているあいだにしか存在しないものであるとは考えていない。虹が見えるということ、あるいは色を見るという行為は、視覚機能をもった生物に特有なものであるが、しかし生物が色を見ることがなくても、色は世界に存在する。それは虹が私に見られることがなくても存在することとまったく同様のことである。それゆえ、たとえ地球上のあらゆる生物が死滅しても、光があり、それを反射するものがあれば、虹は存在し続けるだろう。バラの赤さも、月虹も、だれに見られることなく存在する。
 では、われわれが虹について語るときや虹を認識するとき、それは実物の虹そのものを語り、認識していると言えるだろうか。虹を構成する色を日本語で表わせば、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七色として捉えられるが、実際はそれらの単色のあいだには中間色が無限に存在している。言い換えれば、可視光は長波長から短波長へと無限に連続するスペクトルとして存在しているのである。
 われわれはそれらの色に「緑」や「青」といった名前を与えることによって区別するが、しかし木々の緑は単なる「緑」ではなく、明暗と色彩の複雑な混合によって微細な色味が現われているし、また無限に続くような空の青さを、「青」という言葉だけで言い表わすことはできない。われわれが普段使っている色の語彙は数十から数百種類程度しかないし、色を専門的に扱う業界の色見本においても数千色が記載されている程度であるから、無限に等しい色のすべてを言葉によって表現できているとは言えないだろう。このような事情から、われわれが用いる言葉では虹そのものや色そのものを言い表わすことはできないだろうと考えられるし、そもそも、ものの性質としての「色」と、それを言い表わす言葉ではそれぞれ異なる現象なのだから、「色そのものを語ることができるか」という問い立て自体がナンセンスなのではないか。
 人間の視覚器官の構造に基づいて考えてみたらどうだろう。
 太陽から放射された光があるものの表面を反射して、人間の眼球に届く。その光は角膜、瞳孔、水晶体、硝子体を通過し、網膜の細胞に受容される。網膜には色を認識する錐体細胞と明暗を認識する桿体細胞の2種類があり、それぞれが受容した光情報は視神経を通じて脳に伝達される。しかし、約500万個の錐体細胞と、約1億個の桿体細胞からなる網膜にたいして、視神経細胞は約100万程度しか存在しないために、網膜が受容した光情報のほとんどは簡略化されて脳に伝達される。さらに、入力された光情報には脳の複雑な情報処理の過程でさまざまな意味や価値が与えられ、足りない情報やぼやけている部分、見えない場所が補完される。そうしてさまざまな処理を経た結果、光情報はわれわれが意識や主観的体験と呼ぶ心の内容として出力される。だから、意識上に出力された色は、対象がもっている本来の色ではない。そうであるならば、われわれが認識している虹は意識のスクリーンに映じられた仮象の虹であり、虹そのものではありえないと考えられる。
 さらに、それぞれの主体の意識経験には客観的には説明しえない「質感」とでも呼ばれるような側面がある。たとえば、ふたりの人間が同じ夕日を見ていたとする。ひとりはその夕日を「赤い感じ」という質感のもとに見るが、もうひとりは「灰色の感じ」という質感のもとに見る。
 
 その場合、ふたりは同じ波長の光を網膜で受容しているのにも関わらず、それぞれ異なる質感の色を経験しているということになる。ふたりは言葉によってその違いを明確に説明することはできないし、またまったく同じ夕日の質感を経験することもできない。また、主体が現在経験している瞬間は、その瞬間にしか経験されえないものであり、たとえ同じ場所から夕日をじっと眺めているのだとしても、それぞれの瞬間はそれぞれ微妙に異なった質感のもとに経験されているのだから、同じ主体においてさえ同じ夕日を見ることは二度とできないだろうとされる。
 こうして、今この瞬間に経験している私の意識は過去の私の経験からも、未来の私の経験からも切り離され、そして、だれとも共有されることのない唯一無二の聖域として確保されることになる。私は二度と同じ風景を見ることはできないし、だれとも同じ風景を見ることはできない。そして、われわれは虹そのものを知覚することはできないし、それだけではなく、この世界にあるすべての対象そのものを絶対に知覚することはできない。

 哲学や科学を少しでも学んだ人なら、上記のような心や意識についての議論に見覚えがあるだろうし、それぞれの立場に多少の違いはあれど、おおよその人は世界そのものと経験された世界は区別されてしかるべきと考えているのではないだろうか。経験とは主観的かつ相対的なものであり、他人の心や客観的な事実としての世界そのものはまったくの不可知であると。筆者もかつては(というかけっこう最近までは)そう考えていた。しかし今では素朴実在論の立場をとりたいと考えている。
 私は世界そのものを知覚している。色そのものを知覚し、虹そのものを知覚し、灰色の夕日そのものを知覚している。そして、私はいつか見た風景と同じ風景を見ることができ、また、他人と同じ風景を見ることができる。素朴実在論が見晴らすのは、そんなありふれた風景である。

27 二元論

「私は世界そのものを知覚している」。この主張は知覚についての常識に反しているので、多くの人は懐疑的、否定的な立場をとる。人は世界そのものを直接に知覚しているのではなく、間接的に、あるいは主観的に、各個人が経験している世界のみを知覚しているのであり、その背後にある世界そのものを知覚しているわけではない、というのが現代の人々に広く受け入れられている一般的な常識であり、脳や神経系の研究をしている科学者の多くもまた、このような実在と経験の二元論的な世界観を受け入れている。ここで言われる「経験」とは、音が聞こえるとか、身体の痛みを感じているといったことだが、二元論はその経験に価値や感情、感覚質などが与えられるからこそ、音そのものを聞くことはできないし、痛みそのものを痛むことはできないと考える。その考えに従えば、すべての経験は実際にある世界を原因として、感覚器官から脳への伝達された結果意識上に出力された像であるとされる。たとえば、図のように直哉と圭が同じ桜を見ているとする。
 二元論はふたりが見ている桜は実在の桜そのものではなく、実在の桜の表象上の経験された桜を見ていると考える。そこで実在世界の像であると考えられている知覚および経験を「知覚像」と呼ぶことにしよう。二元論の世界では経験されるもののすべては知覚像であり、実在する自然の模倣にすぎないと考える。上図に即して言えばこうである。「実物の桜から光が反射され、その情報が眼に入り、網膜で電気信号に変換され、視神経を伝わって脳へ至り、脳の神経細胞が興奮することによって、桜の花弁の知覚像が生じる」。このような「実物が原因となって知覚像を因果的に引き起こしている」という考え方は「知覚因果説」と呼ばれる。知覚因果説は自然を外なる世界とし、意識を内なる世界として両者を隔てるので、内なる世界のことは知りえるが、外なる世界のことはまったく知ることができないということが必然の帰結として導かれる。

 知覚された世界に対して、知覚像の原因である実在の世界は意識の外なる世界という意味で、「外界」と呼ばれるが、その言葉を使って、これは「外界の懐疑」と呼ばれる。二元論に従うならば、知覚されうるのはすべて意識の内にある知覚像でしかない。外界については原理的に認識不可能であり、それゆえ経験している知覚像が正しいものなのかどうかも原理的に知りえないのである。
――『心という難問』27p

 外界のすべてが認識できないのであれば、他人の心もまた認識できないものと考えられなければならない。たとえば、圭が描く絵の作風は、彼が見た風景のありのまま描いたものだとされる。その言い分を鵜呑みにすれば、圭の作品を見る者は、だれでも圭と同じ風景を見ることができると考えられるが、しかし二元論はそれをこのように疑うだろう。「たとえ圭の絵が彼の視覚経験をそのまま記録したものだとしても、その絵を見る私は、圭が見た風景そのものを見ているわけでも、その絵そのものを見ているわけでもない。私は、私にしか経験しえない世界として圭の絵を認識しているのであり、この圭の絵についての経験はだれとも共有されるものではない」。このように、私の心や私の意識を出発点として自然や他人の心を理解しようとすると、それは決して到達しえない不可知の外界として位置づけられることになる。二元論の世界では、私が見ている青空の背後に本当の青空があることは私の経験からでは正当化されえないし、私が立つ大地が本当にあるのかどうかも原理的には知りえない。かくして、二元論は認識の袋小路に立たされることになるのである。

26 一元論

 そもそも外界なるものは存在せず、世界と呼ばれるものは経験された世界しか存在しないと考えたらどうだろうか。その立場をとれば、知覚の背後にある実際の世界は無用となり、主体が知覚している意識経験そのものが世界そのものであるとすることができる。それは知覚の一元論ないし意識の一元論と呼びうるものであるが、その考え方を採用するならば外界の懐疑は疑似問題とされ、内側と外側という断絶は解消される。そして、すべての経験が実物の世界として、世界そのものとして捉えることができる。仮に(あくまで仮に)稟が一元論のもとに世界を眺めているならば、彼女(彼女にとっての私)は、現在の自分が経験している知覚像が唯一の世界として存在していると考えるだろう*1
 その場合、図の場面においては桜や青空、仰臥する大地、そばにいる直哉などのその場の知覚し得る範囲にあるものと、稟(私)が想像しているイメージの世界のみが存在しているのであり、それ以外のすべてはそもそも存在すらしていないものとして扱われる。
 稟が「ものは芸術家に発見されるまでは実在しない」というような唯美主義の言葉を引用するとき、そこには一元論的な世界の見方が込められている。われわれの日常の実感からすれば、現在の自分が経験している事実のほかにも、街のどこかで、異国の辺境で、宇宙の片隅でなにかが起こっているであろうと考えるのがふつうである。私が部屋でくつろいでいるあいだにも、窓の外ではいつもなにかが死んでゆく。私が眠っているとき、私の意識は途絶えるが、そのあいだにも天体は規則正しく運動し、地球上では多くの生物がせわしく活動している。しかし、一元論はそのようには考えない。私の意識を超越したできごとなど存在せず、私の意識を超越した他人の意識もまた存在しないとし、私だけを唯一の意識主体と考え、私が経験している範囲外の宇宙の存在も、他の意識主体の存在もいっさい認めることがない。そのように一元論を徹底した結果として、他我の実在のいっさいを否定する立場は「独我論」と呼ばれる。二元論は実在と経験のふたつを対立させたために、経験された世界は知覚像として意識に内に閉ざされるしかなかったが、一元論および独我論においては意識そのものが世界そのものとして現われ、知覚像のなかだけで完結する世界となる。
 一元論の世界では外界の懐疑も他我の実在もいっさいが消失する。その世界では他人の苦しみ、痛み、存在意義のいっさいが認められない。私の知覚風景のなかの他人が苦しそうにしていたり、その人の身体のどこかに怪我をしているのが見えているとすれば、私はその人の痛みを想像したり、共感したりすることができるが、しかしそれは他人が実際に感じている痛みを痛んでいるのではない。それは「私が想像した他人の痛み」を痛んでいるにすぎない。稟が独我論者ならば、稟から見られた雫の苦しみは、雫自身が感じている実際の苦しみではなく、「稟(私)が想像した雫の苦しみを稟自身が苦しんでいる」ものとされる。そして、稟が雫の苦しみをまったく意識しないのであれば、雫の苦しみはそもそも存在しないものとして扱われるのである。
 われわれは他人が実在しない独我論の世界に納得しえるだろうか。哲学的な病いに汚染された一部の人や、現実感の欠如や精神病理的な気分をもっている人なら、世界の実在を否定する独我論に安寧を感じ、その思想に傾倒することもあるだろう。しかし、多くの健常者にとって独我論の世界観は引き受けられるものではないだろうし、本稿もまたその立場を引き受けるつもりはない。本稿が引き受けるのは、世界も、他人も、私の経験も、そのすべてが世界そのものとして実在する素朴実在論の立場である。

25 素朴実在論

 ここまでは「実在」という言葉をとくに定義することなく「実際に実物としてある」とか「世界そのものとして存在している」という曖昧な意味で使ってきた。しかし、ここからはその意味を以下のように定義したうえで使用する。

 ここで「実在論」とは、誰が経験していなくとも存在することを認める考え方を意味している。経験と独立に存在することが認められるようなものは「実在論的」と呼ばれる。
――『心という難問』174p

「実在」とは経験から独立して存在するもののことを言う。それは私の経験から独立しているもののみを指すのではなく、他人の経験からも独立しているものが存在すること意味している。ふつうに考えれば、引き出しにしまってある文房具や南極で崩れ落ちる氷山の一角、夜空に浮かぶ月の裏側がだれにも経験されていないからといって存在しないということはない。経験されていないものの多くが実在論的に存在しているというわけである。
 しかし、ここで「経験から独立して存在している」と言うことで、「実在とは経験を完全に超越しているものである」と誤解されるかもしれない。あるいは意味と意義という区別を用いて、意味を「実在/世界そのもの」とし、意義を「経験/経験された世界」とするような解釈もされうるだろう。
 しかし、その解釈は二元論の典型であり素朴実在論における実在のあり方ではない。実在は、「経験から独立して存在し、かつ経験できるもの」として解釈されなければならない。サクラノ詩における「意味と意義」とは、実在と経験の二元論を表わす用語ではないのである。たとえば、私はいま冷蔵庫のなかになにが入っているのかを知らないが、扉を開ければ実在していた冷蔵庫の中身を経験することができるし、あるいは、本に書かれていた内容を確認するためにページを開けば、実在していた活字に出会うことができる。われわれはそれらのものが、経験されたまさにその瞬間から存在し始めたとは考えないし、ふつうに生活しているかぎりでは自分の経験が世界の表象にすぎないのではないかという二元論的な懐疑に頭を悩ませることもない。世界は経験以前から実在し、かつ経験することができる。それが素朴実在論における「実在」の意味であり、その「素朴」という名が示す通り、それはわれわれのありふれた風景の実感に即した哲学的な立場なのである*2
 さらに用語の整理をしておくと、本稿では「知覚」と「感覚」を区別する。「見る」や「聞く」などの五感に関わるものは知覚であり、「痛み」や「かゆみ」などは「感覚」である。そして、「知覚」を空間という要因から説明し、「感覚」を身体という要因から説明し、さらにそのどちらの要因によっても説明されえないもののすべてを意味という要因によって説明する。そして、本稿ではそれら三つの要因を『心という難問』に即して「眺望論」と「相貌論」に分けて論じる。

 空間と身体という要因から世界の現われを説明する試みを、私は「眺望論」と呼ぶ。眺望論は空間という要因と身体という要因に応じてさらに二つのパートに分かれ、空間という要因から捉えられた世界の現われを「知覚的眺望」と呼び、身体という要因から捉えられた世界の現われを「感覚的眺望」と呼ぶ。そして、意味という要因から世界の現われを説明する試みを、「相貌論」と呼ぶ。
――『心という難問』71p

 本稿は『心という難問』における素朴実在論を支持するので、そこで導入された哲学の用語をそのまま援用して論じていくことになる。たとえば、上記の引用であれば「知覚的眺望」や「感覚的眺望」がそうであるが、それらの用語の定義については議論の進行に合わせて追々確認していくから、ここではとりあえず知覚的眺望は知覚、感覚的眺望は感覚のことであると思っておいてほしい。
 さらに、ここで本稿の構成を記しておこう。次の二章ではわれわれの普段の知覚のあり方と知覚的眺望について論じ、三章では感覚的眺望について論じ、四章では相貌論とアフォーダンスについて論じる。そして、五章では眺望論と相貌論の観点から私、他者、心の関係を論じ、六章では絵画と絵を描くことについて、七章では仏教の世界観への考察を展開することになるだろう。
 また、筆者は『心という難問』の素朴実在論を「独我論を徹底した純粋の実在論」と同じものであると解釈しているので、眺望論や相貌論を独我論的世界(独我論ではない!*3)と関連付けて論じていくことになるだろう。
 実在と経験の二元論者は、純粋の実在論者ではありえないし、意識のみを世界そのものとし、確実性を否定する者もまた純粋の実在論者ではありえない。しかし、素朴実在論はすべての経験を世界そのものとして認めるために、純粋の実在論であると言える。ここよりはじまる議論は、みんなの経験が等しく実在であることに哲学的な了解を与えるための理論的な試みである。

壊相(えそう)の堅信

 そうです。今日こそただの一言でも、虹とことばをかわしたい、丘の上の小さなめくらぶどうの木が、よるのそらに燃える青いほのおよりも、もっと強い、もっとかなしいおもいを、はるかの美しい虹にささげると、ただこれだけを伝えたい、ああ、それからならば、それからならば、実や葉が風にちぎられて、あの明るいつめたいまっ白の冬の眠りにはいっても、あるいはそのまま枯れてしまってもいいのでした。
「虹さん。どうか、ちょっとこっちを見てください」めくらぶどうは、ふだんの透きとおる声もどこかへ行って、しわがれた声を風に半分とられながら叫びました。
――宮沢賢治『めくらぶどうと虹』

24 眺望構造

 ものを見るということ、空間を把握するということは、現在の知覚のみによって成り立っているのではない。事実としていま目の前に広がっている風景は、多くの見えないものに支えられている。言い換えれば、私がある対象に関心を持ち、それを観察し、疑っているとき、その知覚は疑われていないものに支えられているのである。そのような知覚のあり方を、眺望論は「世界は無視点的にも有視点的にも把握される」というテーゼにまとめ、それを出発点としている。本章ではそのふたつの視点からの把握によってわれわれの知覚風景が成り立っていることを確認しつつ、「知覚風景はだれに見られなくても実在する」という帰結を追っていく。それから、ここで言われる知覚風景は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感のすべてを指しているが、本稿では視覚のみに限定して論じていくことにする。では、まずは日常的な視覚の場面を例にとりながら無視点把握と有視点把握の詳細を検討していこう。
 われわれにものが見えるのは、特定の視点位置に立ち、そこからある方角を向き、対象を捉えることによってである。しかしそこから見える風景は、その視点位置から開ける風景のみによって見られているのではない。われわれの風景は一視点から有視点的に把握され、かつ周辺にあるものの位置関係が全体像として無視点的に把握されることによって成り立っている。たとえば、夏目家の廊下の一角から見られた背景CGがある。
これを特定の視点位置から有視点把握された風景であると考えてみよう。この背景には、それがどこから見られたものなのかが示されているが、実際にだれがその位置に立ってこの背景を見ているのかは描かれていない。それでも、それがどこから描かれたものであるのかは見えている風景から特定することができる。

 このように、視覚による世界把握には、それを見る主体の視点がどこにあるのかが示されている。そこで、この特徴を捉えて、世界把握の内にそれを把握している主体のあり方が示されているような把握の仕方を「有視点把握」と呼ぶことにしよう。
――『心という難問』74p

 他方、われわれは無視点的に世界のあり方を考えることもできる。たとえば地図などはそうである。廊下の一角に立ち、そこから見える黒電話の位置関係を地図に描くとき、その地図にはそれを把握する主体のあり方は示されていない。いわば、地図はどこから見られたものではない。

 そのことは、鉄道路線図のような、必要な関係や構造を図示したもの、いわゆる概念図を考えてみれば、明らかだろう。鉄道路線図において山手線を真円に描いたとして、山手線が真円に見える視点などありはしない。鉄道路線図には、駅の関係をそのように把握している主体がどこにいるかといったことはいっさい示されてはいない。そこで、主体のあり方を示唆することなく成立しうるこうした世界把握を、「無視点把握」と呼ぶことにしよう。
――『心という難問』74p

 無視点把握の概念図は実際に地図を見たり描いたりしなくても、われわれの知覚に織り込まれている。しかし、それはわれわれの頭のなかにあらかじめ備わっている知識として用意されているわけではない。無視点把握は、実際に街を歩き回ったり、対象を観察したりといった有視点把握に基づいている。

 無視点把握とは、知覚によらない認識能力といった何か神秘的な力のようなもののことではない。どのような経路で認識したにせよ、私たちは地図のような認識主体と切り離された形での世界把握を、実際にもっているのである。
――『心という難問』75p

 有視点把握と無視点把握のあり方には個人差がある。たとえば、直哉は方位感覚に欠陥があるので世界地図のみならず弓張市の地図でさえまともに描けないだろうが、想像力に秀でている稟なら鳥瞰図や航空写真から無視点的な地図を描いたり、有視点的な風景を描くこともできるだろう。
 そのようにそれぞれの空間把握能力をもちながら、われわれはそれぞれの経験に基づく有視点把握と無視点把握をともに携えながら生活している。われわれは訪れる場所の地図を逐一確認したり描いたりしているわけではないが、見えていないものの把握は潜在的な認知として今見ている風景を支えているのである。たとえば、図は直哉の部屋であるが、この風景が見えている位置からは、机、箪笥、書棚、庭にある池などが見える。それらはその位置から見られた風景であり、有視点把握にほかならないが、夏目家の住人は間取りやものの位置関係を実際に見なくても把握できる。つまり、暗記された地図をもとに無視点的に把握しているのである。
 
 他方、多くのユーザーはこの背景CGの後方の見えていない場所に、押入れと襖があることを知らないし、前方の壁の向こう側に黒電話や藍の部屋があることを知らない。夏目家の背景CGは数枚しかないから、図のような資料でもないかぎり、その背景がどこから有視点把握されたものなのかを無視点的に把握することができない。しかし直哉や藍はそれらを見なくても知っているし、その他にも家全体の間取りや、物干し竿やトイレのある位置なども把握している。それはどこかある地点から見られた眺めとして把握しているのではなく、むしろ地図として、無視点的に把握しているのである。

23 眺望点

「世界は無視点的にも有視点的にも把握される」と言うことで、無視点把握されたものが世界そのものであり客観的であるとか、有視点把握されたものが経験された世界であり主観的であるという二元論的な解釈がされるかもしれないがそれは誤解である。無視点把握も有視点把握もともに客観的な世界把握である。なぜなら、有視点把握における「視点」は経験されなくても空間に存在するものとして、つまり、だれかがその位置に立っていなくてもそこに実在するものとして捉えられるからである。その哲学的な了解が「知覚風景はだれに見られなくても実在する」という主張の根幹を担うのだが、まずは通常考えられる「視点」とはなにかを確認しておこう。
 ふつうわれわれが「視点」というときは、動物の身体の頭部についている目の位置ことを言う。それは身体の移動や向きを変えたり、あたりを見回すことにともなって位置を変える。前方に歩けば視点もまた前方に進むし、首を左右に振れば左右に広がる風景が交互に見える。そんなことは言われなくても当たり前のことである。しかし眺望論における視点は、身体の移動にともなって変化するものではない。いわば不動の点として空間内に備えられているものなのである。では、眺望論における「視点」の定義とはなんだろうか。

 視覚における視点とは、そこから見ればその風景が見える、その位置にほかならない。だが、位置だけではなく、方向も考慮すべきだろう。同じ位置に立っていても、向いている方向が違えば異なる風景が見える。すなわち、その風景が見えるような位置及び方向、これが視覚における視点にほかならない。
――『心という難問』79p

 上記の引用では、眺望論における視点の定義と従来的な視点についての考え方のなにが違うのか分からないかもしれない。しかしそこには決定的な違いがある。眺望論における視点は、位置と方向の関係によってのみ決まるのであり、その場所にだれかが実際に立っていること、あるいはそこに身体があるということは必要条件とされていない。つまり、視点はあらかじめ空間のなかにあるものとして定義されているのである。そうした眺望論における視点と、従来的な視点を区別するために、「眺望」と「眺望点」という用語が導入される。

 すべての知覚様態に共通するものとして、知覚的な――すなわち有視点的な――世界のあり方を「眺望」と呼ぶ。そして、視覚における視点に対応するもの(どこにいて、どちらを向き、何と接触しているか)を「眺望点」と呼び、眺望一般に関して、ある主体がある眺望点の位置を占めることを、その眺望点に「立つ」と言うことにする。以下では、多少ラフな言い方ではあるが、これらを一括して、「眺望点とは対象との位置関係である」ということにしよう。
――『心という難問』80p

 眺望と眺望点の実在論的関係は、五感すべてにおいて共通であるが、本稿では知覚様態のうち視覚のみを扱う。眺望点は、それ単体でのみで存在するのではなく、かならず対象とともに存在する。たとえば、公園の敷地で直哉が仰向けになっている場所のすぐそばは、稟や圭が仰向けになっていた場所であるが、だれもいなくなったことで眺望点がなくなるわけではない。
 そこにだれもいなくても眺望点は実在するが、しかしそれのみで実在しているというわけではない。その眺望点から上方を仰いだときに見える桜の花弁、青空、雲などの眺望との位置関係が成立することで実在するのである。空間内のあらゆる眺望、あらゆる眺望点が位置関係によって結ばれている。われわれはそれらのなかの特定の眺望点に立ち、そこから開ける眺望を見ている。

22 複眼的構造

 もし知覚が有視点把握によってのみ成立するのであれば、それはあるひとつの固定された視点とそこから捉えられた対象との静的な関係によって知覚が成り立つことを意味する。しかし実際のわれわれの知覚は、流動的に変化する世界における知覚なのだから、有視点把握には現在のその位置から開ける眺望だけでなく、過去から未来へと推移する眺望への了解がなければならない。また、有視点把握は一方向から見られた眺望なのだから、それは写真のように平面的なものであると考えられるかもしれないが、実際にわれわれがものを見るときは、平面ではなく立体として見ることができるし、写真を見るときでさえ、その媒体そのものは平面的であるのにも関わらず、写っているものを立体的なものとして見ることができる。
 たとえば、小音羽児童公園を図の視点位置から見ているとする。
 中央にドームがあり、その後ろに建物があるのが見えるが(よく見るとすべり台もある)、われわれはそれを奥行きのない書き割りの風景として見るのではなく、立体と距離という意味のもとに見ている。ドームに空いているトンネルは、ここからは見えない裏側に続いているだろうと考えるし、ドームの上に建物が乗っているのではなく、それらのあいだには空間的な距離が開いていて、手前にドームがあり、後方に建物があるだろうと考える。これらの空間的な把握はだれにとってもとくに意識することなくできる。そのことには有視点把握に異なる視点からの了解が込められていることや、見えているものが見えていないものに支えられているということが示唆されている。

 ここで、立体の知覚と距離の知覚に共通する構造として、「ある眺望点からの眺望はほかの眺望点からの眺望の了解が込められてはじめて成立する」という構造が取り出せるだろう。そこで、虚想論の拡張として捉えられるこの構造を、眺望の「複眼的構造」と呼ぶことにしたい。
――『心という難問』92p

 他の眺望点からの了解とは現在の眺望に含まれる無視点把握のことであるが、その了解はそれまでにしてきた有視点把握の経験に依存していると言える。つまり、人は生まれたときから立体や距離を知覚できるわけではなく、さまざまな有視点把握の経験を積み重ねていくことによってほかの眺望点からの了解を現在の知覚に織り込んでいくのである。
 あるいは、ブランコに乗っているときの眺望の連続的な変化についてはどうだろう。
 ブランコの振幅に合わせて両足を前後に振ることによって、ブランコは加速しより大きな弧を描く。それによって眺望点が変化するとともに地面、公園の遊具、夜空、月などの眺望もまた変化する。それらの眺望が視界のなかで出現と消失を繰り返すが、ブランコに乗る者はついさっき見上げたときにはあった月が、次に見上げたときには消えるだろうとか、目の前に突然壁が現われて激突するかもしれない、などということは考えはしない。つまりブランコに乗る者は、現在の眺望には「さっきまで見えていた」という過去の記憶と「この位置からはこの眺望が見えるだろう」という未来への予期が含まれているということを自明のことがらとして了解しているのである。

 立体を見ること――あるものを「立体」という意味のもとに見ること――は、いま見えている面だけでなく、いま見えていない無数の面に対する(過去・現在・未来の)了解が込められて初めて成立する。
――『心という難問』84p

 生まれたての猫を縦縞しかない箱の中で育てた場合、その猫は横棒を「立体」という意味のもとに見ることができない。ゆえにその猫が箱の中から出て外の世界を歩き始めたとき、横に置かれた棒を避けることができずにかならずぶつかってしまう。それは横棒にたいする有視点把握に、複眼的、時間的な了解が込められていないからである。立体を見るということはわれわれにとっては当たり前なことだからいまいち腑に落ちないところがあるかもしれないが、「立体」や「距離」という見方が生得的なものではなく、経験することによって得られていくものであるということは猫も人間も同じである。視覚系に異常がないものであれば、図 は立体に見えるだろうし、逆に、立体として見ないようにするのはかえって難しいことだろう*4

21 眺望地図

 有視点把握には複眼的構造の了解が含まれている。つまり、ものが見えるということには、見えていないものについての暗黙の了解が含まれている。そして、その秩序付けられた有視点把握に不可欠なものとして無視点把握が要請される。
 独我論的世界における「私」は、日常生活や言葉の使用を支える規範性として現われていた。言葉を語ることによって、その意味が示される。語りえるものは語りえぬものに支えられているというわけである。そのような言語実践とその規範性の総体を「言語ゲーム」と呼ぶが、知覚おいてそれに対応するものとして、眺望論では「眺望地図」と呼ばれる概念が導入される。知覚においても「私」の居場所は規範性に見出されるのである。

 有視点把握には無視点把握が必要である。逆に、無視点把握は時々刻々変化する有視点把握に従って、より細密に描き込まれ、更新される。すなわち、無視点把握は有視点把握に基づいている。かくして有視点把握と無視点把握は相互に依存して成立している。そこで、無視点的に把握された世界了解に有視点的な眺望を込めた総合的な世界把握を、「眺望地図」と呼ぶことにする。そして私は、眺望地図が私たちの世界認知の規定に存していることを指摘したい。
――97p

 そして眺望地図とは、無視点的な地図上の諸地点に、そこを眺望点とする眺望を描き込んだものである。それゆえ、知覚の成立が眺望地図に支えられているということは、世界の有視点把握が無視点把握に支えられているということを意味している。
――『心という難問』101p

 われわれの普段の言語実践が、使用されている言葉の意味がとくに問われることなくなめらかに進行していくように、われわれの普段の知覚もまた、そのあり方、見え方はとくに違和感をもたれることなくなめらかに知覚されている。われわれが有視点把握によって見えているものを疑っているとき、無視点把握による見えていないものは疑われていないのである。しかし、言語ゲームも眺望地図も、単一の固定された意味や見え方にとどまるものではない。規範としての「私」は主体と世界の関わりのなかで循環する。
「私は世界である」というだけでは漠然としているし、「私の限界が世界の限界である」といえるほど規範性は静的なものではない。眺望地図に描かれるのは絶えず変化する世界ので経験される有視点把握とそれを支える無視点把握の総体である。有視点把握される対象のなかでもより関心のあるもの、観察されたものは細密に描かれ、変わっていくものは更新され、そして関心の低いことがらは消去される。そして有視点把握の変化にともない、それを支える無視点把握もまた変化する。こうしたことはわれわれの日常生活のなかでつねに行われていることであり、その事情は言葉も知覚も同じである。規範とはつねに変わっていくものであり、維持するにしろ革新するにしろ、あらゆる言語実践、知覚経験に規範はかならず現われてくる。そして、一見すると複雑に思える規範の流動モデルにたいして、素朴実在論は簡単な四つの要因から説明する。

 その理論を、ひとことで「知覚のあり方は対象・空間・身体・意味に関わる要因の関数である」と表現することができる。こうした要因が決まれば知覚のあり方も決まる。そしてこれ以外の要因は不要であると私は論じたい。
――『心という難問』107p

 眺望地図という経験的な秩序の成立には、対象・空間・身体という要因が自明の理論的了解として、あるいは確実性についての了解として要請される。それらがない世界では、われわれの経験や生活は安定した状態を保つことができない。つまり、主体は経験を通じて「空間がある」という判断に到達するのではなく、「空間と身体がある」という事実に基づいて経験を秩序づけていくのである。
 眺望地図が有視点的に描き込まれていくと言うことで、「眺望地図は経験された世界であり、それ以外が世界そのものである」と考えられるかもしれない。しかし、それは「有視点的に把握された世界が経験された世界であり、無視点的に把握された世界が世界そのものである」という考えと同様に誤解である。有視点把握も無視点把握もともに世界そのものであり、ひいてはそのふたつの相互関係によって成り立っている眺望地図もまた世界そのものを描き込んだものである。眺望地図は私の経験によって描き込まれていくが、しかしそれは世界にひとつしかない私だけの地図を描いていくことを意味してない。たしかに眺望地図はそれぞれの人の経験によって描かれていくが、しかしそこには「だれが描いたのか」という人称の特権性は問題にはならない。私の有視点把握はたしかに私の経験でしかないが、しかしその経験によって形成される規範は公共的なものである。つまり、眺望地図は非人称的に描き込まれ、共同体のなかで共有され、だれにでも経験しうるものなのである(眺望地図の公共性については五章であらためて論じる)*5

20 知覚的眺望

 眺望地図に描かれるのは知覚情報だけではなく、身体や意味の情報も描かれるが、ここまで語られてきた知覚の場面における眺望論の概要は、身体と意味という要因を固定した上で、空間における対象と眺望点の位置関係と、それに基づいた知覚のあり方について言及してきた。その空間における対象と眺望点の位置関係によって説明される知覚の側面を「眺望」と呼んだが、ここからは眺望論にしたがって「知覚的眺望」と呼ぼう。知覚的眺望は対象のあり方と対象との位置関係によって捉えられるから、「だれが」その知覚的眺望の眺望点に立つのかは問題にはならない。つまり、「だれが見ているのか」という知覚にたいする人称性の要請は、知覚的眺望には必要とされていないのである。

 知覚的眺望論において、「私が見ている」が意味するのは、その眺望点に立っているのが私だということである。そして、懐疑論者が示唆するような、それ以上の意味――私は、私だけに経験可能な知覚の経験主体である――などありはしない。
――『心という難問』117p

 たとえば、弓張学園の屋上からは教会の正面の壁に描かれた櫻達の足跡が見える。
私は屋上のある眺望点に立ち、そこから対象である壁画を眺める。しかし、その知覚的眺望は私が見ているからといって、私にしか見えないものではない。なぜなら、眺望点と対象の位置関係は空間内に実在しているからである。ゆえに、その眺望点にはだれでも立つことができるし、そこから見える櫻達の足跡の同じ知覚的眺望をだれでも経験することができる。
 知覚的眺望の議論は、あくまでも身体と意味という要因を固定したうえで語られたものである。しかしだれもがここで疑問に思うだろう。「われわれは異なる身体、異なる意味によってこそ、多種多様で一回的な知覚を経験するのであり、だからこそ私はまったく同じ経験を二度と経験することはできないし、他人とまったく同じ経験をすることはできない」と。たしかに身体や意味によって知覚は多様化する。しかし、それで私と他人が同じ眺望点に立ち、同じ知覚的眺望に立てることの否定にはならない。私の身体と他人の身体は同時間上で同じ眺望点に立てるわけではないが、しかしそれならば、ちょっとそこをどいてもらって、他人がさっきまで立っていた場所に私も立てばいいだけのことである。意味については四章で詳しく論じるが、ここでは、それは私と他人で部分的に共有され、部分的に異なるものだが、絶対に共有できない意味は(同じ人間であれば)存在しないとだけ言っておこう。そして、やはり意味によってもまた対象と眺望点の関係に影響が与えられるわけではないので、その関係性にたいする否定にはならない。
 以上、本章では知覚の基本的なあり方として有視点把握と無視点把握があり、それによって眺望地図という規範を形成していくことの概要を論じ、そして知覚風景の一側面である知覚的眺望を対象と眺望点の関係として空間内に位置づけた。次の三章では知覚的眺望と意味という要因を固定しながら、感覚と身体の関係について論じていく。

血塗相(けちず)の聖体

「いいえ。私の命なんか、なんでもないんです。あなたが、もし、もっと立派におなりになるためなら、私なんか、百ぺんでも死にます」
「あら、あなたこそそんなにお立派ではありませんか。あなたは、たとえば、消えることのない虹です。変わらない私です。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分のいのちです。ただ三秒のときさえあります。ところがあなたにかがやく七色はいつまでも変わりません」
――『めくらぶどうと虹』

19 知覚と感覚

 たとえば、鎮痛剤では抑えきれない痛みを私が感じているとする。私はこの感覚を「痛み」かあるいは「私の痛み」と名づける。この痛みは私にしか感じられない唯一の痛みであり、他人はこの痛みに共感したり、ある程度までは共通した痛みを感じることができるが、しかし私と他人はまったく同じ痛みを経験することはできない。いや、そもそも私にしか感じられないこの痛みを感覚と名づけるならば、私には感じられない他人の感覚は存在しないのではないか。二元論や一元論はそのように考える。

「痛み」の意味は〈この感覚〉であると考えてみる。たとえば私の腕に生じたこの感覚である。このタイプの感覚が私の足に生じれば、私は足が痛いということになり、私の腹に生じれば、私は腹が痛いということになる。では、他人が腕を押さえて痛みを訴えているときはどうか。私はそれを「彼女は腕が痛い」と描写する。そしてそこにおける「痛い」という語は〈この感覚〉として意味づけられる。だが、ここでいっさいの常識を排して、ただ想定されたことだけを文字通りに捉えよう。〈この感覚〉が彼女の腕に生じる。それはつまり、彼女の腕に私が痛みを感じているということにほかならない。「痛み」の意味を〈この感覚〉として意味づけるとき、痛みはすべて私が感じるものとなってしまい、他人の痛みに意味を与えることができなくなってしまうのである。
――『心という難問』119p

 このような考え方を「感覚説」と呼ぼう。眺望論における感覚の議論は、〈この感覚〉や「私の痛み」を出発点としない。それゆえ、感覚説を支持することはない。眺望論における痛みは、ある眺望点を出発点とし、そこから開ける眺望として理解されなければならない。つまり、感覚の意味を感覚それのみによって与えるのではなく、ある眺望点との関係のもとに捉えるのである。しかし、眺望点とは言うが、感覚における眺望点は知覚における眺望点(対象との位置関係)とは異なるものである。だから、まずは知覚と感覚の相違と共通点、用語の整理をしておく。

 これ以後、私は「眺望」という語を知覚だけでなく感覚も含める仕方で用いる。それゆえ、とくに知覚だけに限定するときには「知覚的眺望」と言い、感覚だけに限定するときには「感覚的眺望」と言うことにする。
――『心という難問』122p

 こう言われると、ただ単に知覚が知覚的眺望であり、感覚が感覚的眺望だと思われるかもしれない。しかし、日常的な場面における知覚や感覚という言葉は広く曖昧な意味で使われているため、明確に区別されていないし、眺望論もまた知覚と感覚を明確に線引きをする必要はないとしている。ただ知覚や感覚といった経験は、「知覚像」や「痛み」といった単一の要因では成立しえず、関係性によって成り立っているということを了解するための概念として知覚的眺望と感覚的眺望が導入される。

「知覚的眺望」と「感覚的眺望」は私が哲学的分析のために導入した概念であるから、異なる概念として明確に定義されている。だがそのことは決して、「知覚=知覚的眺望」「感覚=感覚的眺望」として「知覚」と「感覚」を定義しなおすことを意味してはいない。知覚的眺望と感覚的眺望という概念は、一つの経験の二つの側面を表す概念なのである。そこで、知覚的眺望と感覚的眺望という概念を用いて、あえて「知覚」と「感覚」を眺望論の観点から規定してみるならば、知覚的眺望の側面がより大きい経験を「知覚」、感覚的眺望の側面がより大きい経験を「感覚」とし、その間には連続的な推移があると考えることができるだろう。そのような観点から、一応の分類として、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚に関わる経験を「知覚」とし、痛み、かゆみ、くすぐったさ、めまいなどを「感覚」と分類することができるだろう。
――『心という難問』155p

 知覚的眺望は対象と視点位置の関係によって成立するから、そこに身体のある主体が実際に立とうが立つまいが関係ない。ゆえに知覚的眺望はだれにでも経験することができる。たいして、感覚的眺望はどうだろうか。それもまた、〈この感覚〉や「私の痛み」という一過性の私秘的なものではなく、だれにでも経験しうるものとして捉えられる*6。つまり、感覚的眺望における眺望点には、知覚的眺望における眺望点と同様に、だれにでも立つことができるという「公共性」が認められる。

 袋小路を逃れるために、私が眺望点のあり方に対して要請したいのは、「眺望点とは誰でもそこに立ちうるようなものでなければならない」ということである。ただし、ここで「立ちうる」と言われる可能性は事実上の可能性ではなく、いわば原理的な可能性である。(中略)「眺望点とは、任意の人がそこに立つ可能性を論理的に排除してしまうようなようなものであってはならない」のである。眺望点に対するこの要請を「眺望点の公共性」と呼ぶことにしよう。
――『心という難問』125p

「私が感じている他人の痛みは、他人の痛みとして想像された私の痛みでしかない」と一元論は考えるが、眺望点が公共的なものであれば、「私が感じている他人の痛みは、私の経験から独立している他人の痛みと同じである」と考えられなければならない。不可能なことのようにも思えるが、しかし素朴実在論はそれが可能であると考える。

18 身体状態

 だれにでも経験しうるような痛み、その感覚的眺望のあり方に了解を与えうるような公共的な眺望点とはなにか。たとえば、病室にいる健一郎が胸を押さえて痛みに耐えていて、そのかたわらに痛みを感じていない直哉がいる場面がある。
 ここでのふたりの感覚の違いを説明する眺望点とはなにか。健一郎はある眺望点に立っている。それゆえに身体が痛い。他方直哉はその眺望点にはいない。その違いが、健一郎は身体が痛くて直哉は身体が痛くないことを説明する。そして、その眺望点は公共的であり、原理的に直哉もまた立ちうるものでなければならない。眺望論はそれを説明しうる唯一の答えとして「身体状態」を挙げる。
 なぜ健一郎の身体が痛むのか。その原因がなんであるのかは調べてみないと分からない。そして実際に検査したところ、健一郎が肺がんに罹っていたことが判明したとする。健一郎の気管支には悪性の腫瘍があり、それゆえに胸痛が生じる。つまり、悪性腫瘍があるという身体状態を原因として、胸痛という感覚が結果として生じている。この場合、痛みは〈この感覚〉という抽出された要因として説明されるのではなく、その痛みに先立つ原因としての身体状態によって説明される。ふつうであれば、私が痛みを感じたとき、あるいは他人が痛がっているとき、まずは身体のどこかに痛みの原因がないかと疑う。それはわれわれの日常においては当たり前なことであり、ゆえに疑われることなく暗黙のうちに了解がとられていることのように思われる。

 感覚と身体状態との間に成り立つ、このア・プリオリ連関図式こそ、感覚の眺望構造にほかならない。つまり、感覚的眺望の眺望点とは、身体状態なのである。
 眺望論は、こうして「痛み」の意味を感覚的眺望と身体状態の関数においてとらえる。振り返ってみれば、感覚説は、身体状態とのア・プリオリな連関から痛みを切り離し、その感覚の現われだけで「痛み」を意味づけようとしていた。
――『心という難問』127p

「痛み」を主題として考えるとき、哲学者は痛みのみを考察の対象とし、身体状態とは切り離して説明しようとする。「なぜここに痛みがあるのか」「なぜ他人の身体が痛いことが分かるのか」と問い立てするとき、痛みを意識上の経験とし、現実にある身体を実在として分離する。だが、われわれは実際に痛みを感じているとき、身体のどこかに原因があることを知っていて、それが痛みという結果を引き起こしていることを知っている。この「知っている」という自明な了解が、痛みの意味を感覚的眺望と身体状態との関係によって捉えるための不可欠な要因となっている。つまり、「知っている」というのは、ただその痛みがどのような痛みなのかを知っているということだけではなく、かならず身体状態と合わせて知っているということ、それが感覚的眺望と身体状態との関係によって痛みの意味を捉えるということなのである。そして、その了解が痛みについての規範を形成する。

17 他人の痛み

 私の痛みも他人の痛みも、すべては感覚的眺望と身体状態との関係への了解をもとにした規範性を出発点とする。それゆえ、他人の痛みを知る、あるいは同じ痛みを痛むということは、他人と同じ身体状態を経験し、それによって同じ身体状態を知らなければならないことを意味する。しかし、当然ながら各人の身体には個人差がある。体格、性別、健康状態などの違いから、同じ身体状態を共有することはそれほど簡単なことではないだろうから、同じ感覚を共有することも、同じ規範性を了解することも難しいのではないだろうか。
 具体的な事例を考えてみる。蚊に刺されるとかゆくなる。われわれは経験からそのことを知っている。それゆえ、雫が蚊に刺されたとき、きっと彼女はかゆいだろうと考える。
それを眺望論の語り方に置き換えるとこうである。われわれは、蚊に刺されてかゆくなった経験を重ねることによって「蚊に刺された」という身体状態と「かゆみ」という感覚的眺望の相関を知る。それゆえ、雫が蚊に刺されたという身体状態にあれば、雫にはかゆみという感覚的眺望が現われていると考えるのである。
 
 あるいは、目覚まし時計が鳴るとともに、頭上から落ちてきたタライが藍の頭にぶつかるという事例はどうだろう。
 ほとんどの人は寝起きにタライを受ける経験をすることはないだろうが、しかし「頭になんらかの物理的な刺激を受ける」という経験はしたことはあるだろうから、「頭にタライがぶつかる」という身体状態と「頭がズキズキと痛む」という感覚的眺望の相関を予想することができるし、なんなら実際に寝起きにタライを受けてみて、その痛みを経験することもできる。こうした事例では、他人と同じ身体状態になること、すなわち同じ眺望点に立つことはそれほど困難なことではない。
 他方、腕に後遺症が残るほどの怪我をしたときの痛みや、日光過敏症による痛みのように、だれもが経験するわけではない感覚もある。
 
また、出産の痛みなどは、男性には経験できない痛みである。

 このような場合、それを経験したことがないものにとってはその眺望構造もまた未知でしかない。それはたとえば、弓張市の隣町にある観覧車に乗ったこともそこからの映像を見たこともない者には、その観覧車からの眺望が分からないのと同様である。われわれは知覚であれ感覚であれ、その個々の眺望構造の実際を経験によって知るしかない。

 だが、逆に言えば、私たちは世界の眺望構造の具体的なあり方を経験によって知ることができるのである。そしてそれに基づいて、私は他人が経験している知覚的ないし感覚的な眺望を知ることができる。
――『心という難問』130p

 ある痛みを私が経験することによって、私は他人の痛みを推測することができるようになる。しかしそれは私が経験する「私の身体状態」から推測されるのではない。私が経験することによって知るのは「私の身体状態」ではなく、「人間の身体に共通の身体状態」である。つまり私は、私の経験によって私の経験のあり方を知るのではなく、人間の身体という世界のあり方を知り、それに基づいて他人の痛みを推測する。

 蚊に刺され、かゆくなった。この経験が教えるのは、けっして「蚊に刺されると私の場合にはこういう感覚が生じることになる」という私についての知識ではない。それは、この世界についての知識である。(中略)はじめてドリアンを食べ、その味を知る。はじめて尿結石になりその痛みを知る。こうしたことは、世界の眺望構造についての、客観的な知識なのである。
――『心という難問』132p

 私がある感覚を経験をする。それは私に特有の経験ではなく、共通の身体状態から生じる共通の感覚である。たしかに体格差や性差によって私と他人の身体状態はある程度は異なるものになるだろうし、出産の痛みや身体の一部を失った人の幻肢痛などは、それを経験したことがなければ推測することが難しい。しかしだからといって他人の感覚がまったくの不可知であるということにはならない。他人の痛みが知りたいのであれば、あらゆる痛みを引き受けて、それらを世界についての知識として了解し、それに基づいて推測すればいい。長い時間をかけて感覚その他の経験を積み重ね、それに応じて規範を形成していけば、あるいはそうすることもできるのではないか、そう楽観的にも考えられるのである。

16 同一性の懐疑

「同じ」感覚を経験することができると言うと、このように反駁されるだろう。「私の身体と他人の身体は異なる物質によって構成されているため同じ身体になることは物理的に不可能なのだから、たとえ同じ身体状態になったとしても分子や素粒子のレベルで完全に一致しているとは言えず、したがってまったく同じ感覚を経験することも不可能である」。同一性をめぐる典型的な懐疑は、このような厳密性の徹底という形で現われる。眺望論はそれにたいして、「同じ」という概念の寛容さに訴え、その言葉の意味があくまで日常的なレベルにとどまると言うことで答えている。つまり、われわれが同一性について議論するとき、徹底して懐疑を尽くそうとしても、「同一性」や「同じ」という概念は規範のうちでしか語られえないのである。

「同じ」という語はかなり融通のきく言葉であり、また融通をきかさなければ日常的には使い道のない言葉である。だが、眺望論を潔癖にとると、「厳密には同じ眺望を複数の人が経験することはできない」と言いたくなってしまうかもしれない。というのも、複数の人が厳密に同じ眺望点を共有することはできないように思えるからである。立っている位置や向いている方向も厳密に同じというわけではないし、食べ物も厳密に同じものを食べることは不可能である(あなたが食べたそのリンゴのひとかけらを、私はもう食べることはできない)。
 しかし、そうしたヘラクレイトス的厳密さは、私たちの日常の実際からはかけ離れている。眺望論の最大のポイントは、私と他人との眺望の違いを眺望点の違いとして説明しようとするところにある。それゆえ、眺望の違いが問題になっていないところでは、眺望点の違いを厳密に言いたてようとすることにポイントはない。
――『心という難問』149p

 たとえば「今日の私や明日の私、数年前の私はなぜ同じ「私」なのか」というように、自己の同一性や意識の連続性について考える。だが、そのときには私の身体を構成する物質が代謝によってつねに変化していることは懐疑の対象にはされていない。つまり、私の身体が厳密な意味で同じであることは求められていないのである。仮にそれらにたいして徹底的に厳密性を求めたとすれば「今この瞬間の私は、次の瞬間には別の私であり、その次の瞬間にはまた別の私であり〜」という無限に不連続な私を想定しなければならなくなる。それはもはや「同じ」という概念そのものを喪失していると言えるだろう。「同じ」概念の厳密性を徹底して懐疑する者は、いかなる言語実践にも参加することはできないし、もしも「同じ」概念のもとに知覚することも痛むこともできない人間がいるとすれば、その人の世界はよほど混乱したものとなるだろう。われわれの知覚も感覚も言語実践も、徹頭徹尾規範に支えられているのである。

15 心身因果

 眺望論は、眺望点である身体状態を原因として感覚的眺望という結果が生じる、その因果関係を認めている。そして、その因果関係は世界のあり方の知識として規範に描き込まれるものであるとする。では、その相関のすべてを物質に還元することや、物理学の手法によってその因果経路を観察し、記述することは可能だろうか。眺望論はそのような唯物論的趨勢には反対している。言い換えれば、眺望論は感覚的眺望と身体状態の因果関係のすべてを自然的事実に還元する立場を取ることはない。それゆえ、対象の物理的な因果関係しか認めない物理学とは異なり、心的なものごとと物理的なものごとの間の心身因果を認める立場を取る。感覚の場合、心的なものごととされるのは痛みやかゆみといった感覚的眺望のであり、それを生じさせる原因である物理的なものごととは、眺望点たる身体状態のことである。
 たとえば、水菜が「接待」と称され複数の男性に身体を弄ばれているとする。その身体状態を物理学的に描写すれば「皮膚や粘膜への刺激が電気信号に変換されて神経へと伝わり、脳を興奮させる」というように記述される。「脳が興奮する」というところまでは物質に還元できるものごとであるが、しかし脳が興奮したことによって、身体の一部が痛む、あるいは胸が痛む、あるいは「心が痛む」というように空間的には特定できないような場所が痛むということには、それらの痛みの個所と脳をつなぐ空間的に連続した因果経路は認められない。つまり、空間的に離れた位置にあるものごとに、その中間の因果経路なしに直接作用しているのである。物理学はそのような時間的空間的に断絶した因果関係を対象にはしない。ゆえに、感覚的眺望が唯物的に還元されることもない。

 なるほど現代物理学は心身因果を許容しないような因果概念を持っている。しかし、そもそも物理学は物理現象を説明するための科学であるから、そこに心身因果が収まる場所をもたないのは当然のことと言えるだろう。むしろ私としては、因果概念が本来私たちの生活の中で培われてきたものであることをだいじにしたい。実際、私たちは日常的に感覚因果をふつうに語っているのである。「蚊に刺されてかゆい」「尿管に結石が詰まったことが激痛の原因だった」「花粉が原因で目がかゆい」「昨夜の深酒が原因で頭がガンガンする」等々。私は、こうした日常的な語り方を捨て去る必要はないと考える。
――『心という難問』171p

「愛していない人間に抱かれるのは苦痛だ」とか「愛している人間に抱かれているから心が温かい」といった語り方はどうだろうか。例外はあるだろうが、そのような感覚的眺望と身体状態の因果関係は、生物であるヒトにとっての典型的な了解であると考えられる。
 だれでも知っているような身体状態を原因として、心の痛みや心地よさなどといった感覚が生じる。しかし、心が感じていることを「感覚」と呼ぶことに多くの人は奇異に感じるかもしれない。「心の痛みや快不快、うれしさ、悲しさ、幸福感といったものは「感覚」ではなく「感情」ではないのか」と、そのように疑問に思うことだろう。しかし、眺望論は身体状態および脳状態を原因として生じる心的なものごとを感情とは呼ばず、そのすべてを感覚として扱う。

 感情を抑鬱や高揚感といった感覚と混同してはならない。抑鬱や高揚感であれば、薬物といった原因によって引き起こすことができる。
――注87 359p

 日常的にしばしば「感覚」という語は感覚的眺望よりも広い意味で用いられている。快・不快、楽しさ、恐ろしさといったことがらも「感覚」と呼ばれうるだろう。ここではこうしたことがらについての議論には入らないが、私の考えでは、快・不快、楽しさ、恐ろしさなどは相貌に関わっている。美しいものは美しさと同時に快の相貌を持つ。人を浮き浮きさせる風景もあれば、怖がらせる風景もある。こうした相貌は眺望地図に描かれることもあるだろう。
――『心という難問』注125 367p

 独我論的世界において「感情は心的内容ではない」や「意志は心的動力ではない」と言われるのは、それらが脳状態を原因とした心身因果によって説明されるものではなく、身体からは独立して存在する相貌として捉えられるからである。しかし、ここでもまた奇異に感じられるかもしれない。多くの人は知覚や感覚になんらかの意味や価値が入り込むことを認める。しかしそのうえでこのように考えるだろう。「知覚や感覚に含まれる意味や価値こそが、すなわちこの「感情」であり、この「感覚」であり、総じて私の身体に生じている心的なものごとである」と。そのようなごく一般的な考え方と眺望論の考え方が違うように感じるのは、意味や価値、感情、感覚、身体を哲学上の概念として区別しているか否かに違いがあるからである。通常であれば、人は自分が感動しているときや悲しんでいるときに、その感情と感覚、身体、意味を区別することはない。だが、眺望論はそれらに哲学的な了解を与えるための理論なのだから、言葉によって区別することで知覚経験の総体をいくつかの側面から説明しなければならない。哲学に慣れていない人はおそらくそこに違和感を感じているのかと思われる。
 たとえば、快不快が生じるプロセスには、モノアミン系の神経伝達物質が分泌され、それが神経系を伝わり、神経細胞を活性化させるという脳状態があることは科学的な事実として認められている。おそらく、たいていの人はその事実を認めたうえで、その結果として生じる快不快を心的なものごとと考える心身因果の立場を取っているのではないだろうか。眺望論もそれを否定することはないが、しかし心身因果によってのみ捉えられた快不快は、脳状態を原因とした感覚的眺望として扱われる。では、感情はどこにあるのだろうか。それは次章の相貌論によって説明される「意味」として存在するものである*7




『Sacraments Perception 下』に続く
http://d.hatena.ne.jp/tono_d/20160824

*1:他の記事でも何度か書いたが、稟の立場は意識一元論ではなく直哉と同じ素朴実在論である。

*2:経験することができない超越的な実在については素朴実在論の範疇ではないので本稿では論じない。

*3:「私の心」を出発点としたデカルト的な独我論と区別したうえで「私は世界である」を出発点とした独我論を徹底した純粋の実在論を表わした用語。夢跡では主に言語使用における規範性を「私」としたが、本稿では知覚、感覚、意味における規範性を「私」とすることになる。

*4:「立体」「距離」「同一の対象」の知覚は、その意味のもとに知覚するということであり、それゆえ相貌のもとの知覚である。相貌については主に四章で論じる。

*5:言語、知覚、感覚、意味の規範性や公共性が独我論的世界における「私」であり、その私とは異なる規範を「他者」と呼び、私にも他者にも属することのない個人性に属するものを「心」とするという考え方は、『心と他者』(勁草書房、1995年)より語られてきた。『心という難問』では知覚と感覚を論じる眺望論を完成させ、意味を論じる相貌論をさらに展開させることが目指されている。

*6:後述するが、感覚的眺望はだれにでも経験されうるが、知覚的眺望のように空間に実在しているわけではない。

*7:意味としての感情は状況と理由によって説明され、意図(意志)はやる気や高揚感などの心的動力ではなく行為に示されるものであることは夢跡にも書いた。