サクラノ詩 円環の現在 上

1 梯子の上
2 その先の風景
3 語りえぬものを語る
4 エティック・リヴァイヴァル
4.1
4.11 意味と意義
4.2
4.21 意味を疑う
4.22 世界の限界
4.23 世界の内外
4.3
4.31 生の意義
4.32 祈り
4.33 音と言葉
4.4
4.41 永遠の実在
4.42 必然の奇蹟
4.43 神の愛
4.44 時間


1 梯子の上

H 幸
H 福
H に
H 生
H き
H よ
H !
H 
H と
H い
H う
H こ
H と
H よ
H り
H 以
H 上
H は
H 語
H り
H 得
H な
H い
H と
H 思
H わ
H れ
H る
*1 *2

2 その先の風景

I dwell in Possibility
A fairer House than Prose
More numerous of Windows
Superior for Doors

Of Chambers as the Cedars
Impregnable of eye
And for an everlasting Roof
The Gambrels of the Sky

Of Visitors the fairest
For Occupation This
The spreading wide my narrow Hands
To gather Paradise

私は可能性のなかに住んでいる
散文より立派な家に
窓かずもずっと多く
戸も一層すぐれている

それぞれの部屋には
目も侵せない西洋杉
永遠の屋根には
空の切妻屋根――

訪問者は美しいひとびとだけ
そしてわたしの仕事は
この小さい手をいっぱい広げて
天国をつかむこと

3 語りえぬものを語る

稟……おれはたまにこんなことを考えるんだ
美の限界ってどこなんだろう
もしそれが経験できるものの限界と同じなら
その最果ては人がいなければ存在しない
でも人がいれば美は世界に満たされる
人がいるから神はそばにあるんだよ
そのすべては自然に宿っている
人なくして存在しないのに
初めからそこにあるんだ
良いものも悪いものも
残酷さも誠実さも
無限の痛みも
無限の愛も
それはさ
音と言葉の違いなんだ
心と自然の差なんてさ
そんなのどこにもないんだよ
生きていく過程で関わり合い
身体の痛みを受け入れるから
いろんな美を発見できるんだ
それは神さまと同じ重さ
この目に映る明暗や色彩
光に囲まれた街の大きさ
美は光で結ばれるんだ
おれたちのまわりに
みんなのまわりに
大地のおうとつ
水面のふるえ
気層のやね
それらに包まれ
ひかりを感じたり
ことばを交わしたり
動きまわったりすれば
変わっていく風景のなかに
変わらないものがあると気づく
それは永遠に閉じた世界のように
切り取った瞬間のようにそこにある
それはおれたちがまったく同じものを
見ることができるってことにならないか?
でもさ
そうだとしてもさ
変わらない風景は
変わっていくんだ
それは心と風景が
円環の関係にあるからなんだよ
おれたちはその間を生きている
生きているからつらくて苦しい
だからおれたちは探すんだ
たしかにそこにあるものを
どれだけの季節が巡っても
どれだけの月日を重ねても
おれたちは探し続けるんだ
あいつが絵を描き続けたように
やつが幸福を信じ続けたように
おまえが海を渡り続けるように
ありふれた風景
見慣れた景色
人々の灯り
帰る場所
おれは
おまえと見ることができるだろうか
そこで同じ世界の瞬間を
櫻の森の上で舞いながら
櫻ノ詩の下で見るんだ
……おれはたまにこんなことを考えるんだ
この櫻の森の下を
歩みながら

4 エティック・リヴァイヴァル

4.1

She sweeps with many-colored brooms―

4.11 意味と意義

 人が普段の生活のなかで「意味」という言葉を使うときと、「意味と意義」という場合における哲学の専門用語としての「意味」は異なる言葉として扱われる。さらに「意味と意義」という言葉はそれを使う哲学者によって細かい定義が違ったりする。意味は指示対象を表す真理値でありBedeutungと呼ばれるとか、意義は指示対象を規定・把握する様態でありSinnと呼ばれるとか。でもここでは平易に語ることを目的にしているので、そのような哲学用語をできるだけ使わずに説明したい。
 まずは「意味と意義」について考えるために、『素晴らしき日々』(以下、すばひび)や『サクラノ詩』(以下、さくうた)の二作からその言葉が使われている個所を引用する。

 彼女は言葉より遙かに速い速度で、それをボクに伝えた。
 言葉より速く伝わるものもある。
 言葉より正しく伝わるものもある。
 世界はどんな短い時間でも意味を持つ。
 意義を持つ。
――『素晴らしき日々』It's my own Invention 卓司

 毎年同じ様に咲く様に思われた桜。
 たしかに長山の言うとおり、今年の桜は俺にも最高に美しく思えた。
 長山にも、美しく見えるこの桜。
 それとも──。
 いや……問うまい。
 世界は、どんなに悲しい瞬間でも美しく。そして、どんな幸福な瞬間でも醜い。
 そういうものだ。
 だから、俺達が生きる世界には、意味と意義がある。
――『サクラノ詩』V 直哉

 これらの引用のように意味と意義が並べられて語られるときは、日常生活でよく使うような「意味」とは異なる意味合いで扱われる。卓司も直哉も、それぞれ違う状況でありながら同じ「意味」について言葉によって指し示している。「意味」とはすばひびで「問う必要はない」とされたものであり、また上記の引用部における直哉が「問うまい」としたものである。問えないということは、つまり疑えないということである。たとえば足の下にある地面や目の前にある桜の木にたいして「ここに大地がある」とか「そこに桜がある」と言ってみたとする。でもその言葉は「大地そのもの」や「桜そのもの」を言い表しているわけではない。その対象についてどれだけ言葉を尽くしたとしても、そこには言葉にはできないなにかが残る。そのなにかが「意味」であり、それについては言葉にできないことのほかにも、見ることもできず、聞くことも触れることもできない。桜の木が美しく見えるのだとしても、それは桜の意味を、ひいては世界そのものをなにひとつ表してはいないのである。
 たいする意義とは、先述したような意味そのものではない、経験されたもののことを言う。たとえば引用部の卓司のように、言葉使わずに希実香の思いを感じるという経験は意義であると言える。それから直哉が独白する「世界がどんなに悲しい瞬間でも美しく、どんな幸福な瞬間でも醜い」というのは、それを見る者がどのように感じるか、どのように経験するかによって世界の見え方が変化することを表している。そのようにして、人は世界そのものを見るわけではなく、自分が経験してきた意義をもとに世界を見る。
 以上の通り、意味と言うときは「世界そのもの」、意義と言うときは「経験され得るもの」というふうにざっくりと区別して、ここからはその定義にしたがって話を進める。

4.2

And leaves the shreds behind―

4.21 意味を疑う

 意味は見ることも感じることもできない。であれば「そもそも意味は存在しているのだろうか」という疑問が生じる。たとえば「世界は実在する」ということを疑ってみる。本当にそんなものはあるのだろうか。あるとしたらそれはどこにあるのだろう。そうしてどんどん疑いを広げていく。それで世界の隅々まで疑い尽くした果てに、「実在する保証はどこにも無かったから世界は存在しない」という答えが得られたとする。その答えの正否はともかく、では世界を疑っていたときに他に疑われてないものはなかったのだろうか。疑われていないものは、すなわち実在していると言えないだろうか。その疑われる対象と疑う者の関係は、すばひびとさくうたではこう示される。

 信じるならば……私は存在する。
「信じるならば存在する……まるで神様だ」
「くすくす……そんな事ありませんよ。それはごく当たり前の条件……。だって、人は何かを信じる事が出来なければ歩く事も出来ない……懐疑の迷路は、歩く事すら許さない……。次の一歩が奈落であるかもしれないと疑えば、そこで歩は止まる」
「ふぅ……つまりは疑うな……と」
「そんな事言ってませんよ……問う事に意味がない答えなどいくらでもあります……。それを問う事は無意味だと言ってるだけです……」
――『素晴らしき日々』Down the Rabbit-holeI 由岐 ざくろ

「難しい話は良く分からん。ただ言える事は、人が何かを信じるという事は、最終的に“演繹”でも“帰納”でも“確証”でも“反証”でもないのだろう。人は生まれた瞬間から“疑う”事を知ってるわけではない。疑いを知らない者が“信じる”事など知るはずもない……。人は“信じる”を知る事によって“疑う”事をはじめて知る事が出来る。信じるというのは、いつだって何の確証もないもんなんだろうな」
――『サクラノ詩』II 直哉

 ここで言われている「信じる」ということは「疑われていない」というのと同じである。人はなにかを疑っているとき「私が存在している」ことや「二本の足で大地に立っている」という当たり前の条件を疑っていない。そして自分がいつの日にか生まれ、その瞬間から今の今まで他の誰でもない自分として生きてきたということも疑っていない。それはなにかを考えたり、同じことを繰り返し実験してみたりといった行為の基盤になるものである。疑えない事実として自己が存在している。「意味は存在するか」という問いにたいする答えはまさしくここにある。それは論理的に導き出された答えではないために、なんの確証もなく、したがって反証もされない。しかし自分の身体は確かにここにあり、そして自分の心もまたここにある。「私」や「自己」というのは身体と心の二つに区別されがちだけど、それらは同じ「疑われていない自己」として存在している。だからすばひびではそういう確かなものとしての自己、すなわち身体と心が示され、その疑われていない意味というのが出発点となっている。そしてそれは物語を通して再び疑いの目にさらされ、しかしそれでもやはり疑えないということが確認されて、最終的には自己と世界と同じ大きさを持つものだということが発見される。

4.22 世界の限界

「私は世界である」と言えるためには、どこまで世界を疑えばいいのだろう、というのは先ほどにもふれたように、言葉を尽くしてあらゆるものを疑うことによって可能になる。しかしあらゆるものを疑い尽くすというのは現実的ではない。だからその代わりに「私にはどれだけのことが考えられるか」ということを限界付けることによってその答えを得る。。現実では難しいことでも論理の世界なら筋道立てて考えていけば答えを導くことができる。そしてその思考の果てに「これが考えることの限界である」と結論付けることによって、疑われるものとそれ以上疑うことができないものを区別して、「これ以上は語り得ない」としたのがウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(以下、論考)であり、ひいてはすばひびが辿り着いた思想である。語れないとはつまり疑えないということではあるが、それは疑われていない自己としての「意味」ではない。それは経験によって示される「意義」である。

4.23 世界の内外

 意義について語るために論考の一部を引用する。すばひびでもよく引用され、作中の人物が要所で諳んじる文章である。

 私(あるいはこれを読むあなた)は世界に属さない。
 それは世界の限界である。
 世界の意義は世界の外になければならない、
 世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。
 世界の中には価値が存在しない。
――『論理哲学論考』6.41(Down the Rabbit-HoleII冒頭の引用)

 果てまで考えたのだから、私は世界の限界に至っている。だから私は世界の限界であり、世界は私の限界である、ということを示しているのが引用部の1・2行目である。そして3行目以降は言葉の限界のその先にある意義について言及している。
 まずは「価値」という言葉が「意義」と同義であること確認する。人はいろいろなものに興味を持ち、自分になにが必要かを考え、世界と関わるために行動する。日常一般において「価値」という言葉はだいたい幸福とか欲求とかと結びついているけど、それはもとを正せば「経験され得るもの」であり、経験することができない意味に属するものではない。人は世界そのものに価値を見出しているのではない。なにかが好きだとか嫌いだとかいうのはもともと世界にあったものではない。人は心のなかで価値を発見し、経験する。それは意義と称されるものでもある。だからここからは「価値」は「意義」と同義であるとして話を進める。
 では改めてまずは「世界の中には価値が存在しない」とはどういうことかを考える。これは「世界のなかには意味しかなく、したがって価値はない」というようなことを言っている。たしかに世界そのものには価値が存在しないかもしれない。でもある人はこう言うかもしれない、「私の心が世界を感じ、そこに価値を発見したならば、世界の中に価値が存在していると言えるんじゃないか?」。たしかに価値と呼ばれるものを「経験されたもの」とするならばその人の意見は正しい。しかしここで言われている価値とは普通言われるような価値とは比べられないものとして、つまり完全でなければならないものとして示されている。その価値と称されるものに対する厳格な態度は、先述した引用部の続きに表れている。

 ――かりにあったとしても、それはいささかも価値の名に値するものではない。
 価値の名に値する価値があるとすれば、それは、生起するものたち、かくあるものたちすべての外になければならない。生起するものも、かくあるものも、すべては偶然だからである。
 それを偶然でないものとするのは、世界の中にある何ごとかではありえない。世界の中にあるとすれば、再び偶然となるであろうから。
 それは世界の外になければならない。
――『論理哲学論考』6.41

 世界にあるものはすべて偶然によって成り立っているから、自分にとっては価値がないとしている。偶然なるものに価値を見出しても、それは結局は偶然のなかに帰ってしまう。だから価値と呼ばれるものは世界の中ではなく、世界の外になければならない。これはとてもストイックな考え方である。なぜならそれは世の中にあふれている乱雑なもの、たとえば美少女イラストとか、声優のCDとか、エロゲとか、萌えとか、同人誌とかの、偶然なるものの大きなうねりのなかで発見されたものは価値と呼ぶに値しないと言っているからである。私の心が「これには価値がある」と判断しても、それはいつか価値のないものとして忘れ去られてしまうかもしれない。そんなものは価値と呼ぶに値しない。だからさきほどある人が言った「私の心が感じたら世界に価値は存在するんじゃないか?」というのは、論考とすばひびの世界では成立し得ない。
 ではどのようなものが価値と呼ぶに値するのだろう。それは偶然なるものの外にあるもの、すなわち必然なるものに他ならない。必然であるということは、その価値は永遠に失われることはないということである。そして世界の外に必然なるものを見出した者は、言葉の限界の一歩先へ進むことができる。すばひびではそうして世界の外へ一歩踏み出すことを「世界の限界を超える」と言い表される。その限界を超えた地平から、必然なるものとともに見られた世界は「永遠の相のもとに見られた世界」であるとされる。永遠の相のもとに見られることによって、偶然なるものであふれかえっていた世界は、必然なるものに満たされた世界として見られる。それは必然なる価値を世界の中に見ているのではない。あくまで限界付けられた全体として捉えられることによって、必然なるものが世界に満たされるのである。
 そしてここまで突き詰められた世界では「世界の外」は存在しない。外側が存在しなければ、「世界の中」という内側も存在しない。疑われていない自己と必然の価値とは、ともに世界の限界にあるとされる。だからここまでくれば外側か内側か、疑われているか疑われていないかの問題は消失し、人は語り得ないはずの意味と意義について語ることができるのである。

4.3

Oh, housewife in the evening west―

4.31 生の意義

 必然の価値はすばひびにおいて「生の意義」と「生きる意志」として示された。それが世界を満たしたとき、あるいは世界の限界を超えたとき、あるいは永遠の相のもとに見られたとき、生きることは必然の結果として見て取られる。それによって世界のなにかが変わることはない。生きるために必死で身体を動かしたとしても、得られるのはただそこにあるだけの世界と、生きる意志によって満たされた世界だけである。すばひびで示された「生の意義」や「生きる意志」は世界から独立している。だからこそ意志は世界を「見る」ということしかできず、したがって問われるのは「世界をどのように見るか」という世界の見方についての問題となる。そして生きる意志を通して得られる世界の見方というのは「幸福であるか、不幸であるか」の二つの選択意外には存在しない。そして生の意志によって満たされた世界は幸福な世界であり、死の意志によって満たされた世界は不幸な世界であると言える。したがって生きる意志が必然なるものであるならば幸福もまた必然なるものであると示される。かくして生きる意志と幸福な世界は一致する。

4.32 祈り

 生の意義とは「なぜ生きなければならないのか」や「いかにして生きるのか」という問いに対する答えである。しかしそれは言葉にすることができずに、ただ示されるものである。なぜならそれは言葉の限界を超えたところにあるものだからである。答えが言い表しえないものであれば、問いもまた言い表しえない。生の意義については問うことも答えることもできない。生の意義も、幸福も、それらはすべて言葉の外にある。それらと同じように、善悪もまた言葉の外にあるものとされる。善と悪があるところには必ず神がある。だから生の意義を神と称することができる。したがって、「生の意義は神と一つである」と言える。永遠の相のもとに見られた世界では、生の意義も、生きる意志も、幸福も、善も、神も、それらはすべてひとつの必然のものとして発見される。そのような生には、不可解な謎も、解決するべき問題も存在しない。人はありのままの事実を受け入れ、幸福な世界を生きることができる。

“神を信じるとは、生の意義に関する問いを理解することである”
“神を信じるとは、世界の事実によって問題が片付く訳ではないことを見てとることである”
“神を信じるとは、生が意義を持つことを見てとることである”
 その神は奇跡も起こさず。
 世界を一週間で作る事も無い。
 基本何もせずに……、
 それでも無責任に……、
 我々に“幸福に生きよ”といつでも耳元で囁くだけだ。
 そして、すべての調和を誰のためでも無く作り上げるだけの存在だ。
 それが神と呼ばれる者の正体だ……。
 神は、嘘も不正も、まがい物も卑しさも、汚さも……それらすべてのものの存在を許している。
 どんな不条理が俺たちの人生に降り掛かろうと、それでも神は我々に言うであろう。
“幸福に生きよ”
――wonderful everyday 皆守

 しかしなぜ「幸福に生きよ」という言葉が語られるのか。神は言葉の外にあるのではなかったのだろうか。「生の意義に関する問いを理解する」とは、その答えを言葉にすることができないことを理解することではないのか。本当に神は「幸福に生きよ」と言っているのだろうか。それらの疑問にたいする答えは以下のように示されている。

4.33 音と言葉

「でも、あの時、たしかに神様の歌を聞きました」
「世界と神様の差って……言葉と音楽の差なんだって知りました……」
(中略)
「あの時、私……世界の重さを測ってみたんです。持って行った秤で……」
「そしたら、世界の重さって神様の重さと同じだったんですよ!」
「あの瞬間、あの瞬間で、世界と神様の重さが同じになったんです……」
――It's my own invention 希実香

「ぼくたちの頭はちょうど神様と同じ重さ」
「ほら、二つを正確に測ってごらん……」
「ちがうとすれば、それは……」
「言葉と音のちがいほど……」
――JabberwockyII 由岐

「それは神と同じ大きさ……」
「神と同じ重さ……」
「それは美しい旋律と美しい言葉……」
――wonderful everyday 皆守

 希実香が言う世界とはただあるようにある世界ではなく、必然のものによって満たされている世界である。それは私の心と世界が神に満たされていることを示している。その瞬間において、世界の重さは神様の重さと等しくなる。それは、言葉の限界の一歩先のところにある重さである。だからそこから聞こえる神様の歌は通常の言葉とは違うものである。それはただの言葉ではなく、神の旋律であり、美しい詩なのである。生の意義は神とひとつであり、倫理と美はひとつであると言える。美しい旋律と美しい言葉は、神の大きさと重さに等しい。そしてその限りにおいて、言葉と音に違いはなくなる。だから「幸福に生きよ」と神が言うとき、それは言葉の限界を超えた美しい旋律として世界に鳴り響く。そしてすばひびはそのたったひとつの旋律をのこして、それ以上は語り得ないとするのである。

4.4

Come back, and dust the pond!

4.41 永遠の実在

 ふつう人は確かなものだけを信じて生きているわけではない。たったひとつの神の言葉を信じて生きているわけではない。誰かを疑うこともあれば誰かを愛することもある。欲しいものもあれば欲しくないものもある。死にたいと思うこともあれば生きたいと思うこともある。いつだって幸福でいられるわけではないし、かと言って不幸がずっと続くわけでもない。季節が移ろうように、人の心も絶えず移ろう。人はそんな世界を生きているのではないか。

「そうだね……でも、だからこそ人は、言葉を手に入れた……」
「空を美しいと感じた……」
「良き世界になれと祈る様になった……」
「言葉と美しさと祈り……」
「三つの力と共に……素晴らしい日々を手にした」
「人よ、幸福たれ!」
「幸福に溺れる事なく……この世界に絶望する事なく……」
「ただ幸福に生きよ、みたいな」
――jabberwockyII 由岐

 由岐の言う通り、人はただでは信じられないから言葉を使って考える。一歩ずつ足元を確かめながら氷の上のようにつるつるした論理の世界を歩く。一段一段足場を確かめながら梯子をのぼる。なんの脈絡もなく「幸福に生きよ」と言われても、それを信じることなんてできないし、美しいとも思わない。神は無条件に信じられているのではない。そこに至るまでの道筋に、演繹や、帰納や、順接や、逆説や、結論があったからこそ我々はその先にある神の言葉を信じることができる。すばひびのなかで描かれた空を美しいと感じた、絵や音楽、シナリオを美しいと感じた、物語を美しいと感じた。だからこそ我々は、素晴らしき日々を信じることができた。物語を超えたその先で祈ることができるようになった。しかしその祈りが永遠ではないことを現に私たちは知っているはずである、現実を生きていくなかで一瞬たりとも後悔や絶望がなかった者などどこにもいない。すばひびの思想を実践することは容易なことではない。再確認すると、由岐が言う素晴らしき日々とは、そして論考で示された倫理とはこういうものである。

 必然でなければ価値の名に値しない。
 美でないものは信じるに値しない。
 真でなければ神の名に値しない。
 祈りは永遠でなければならない。
 生きる意志はいかなる時にも否定されてはならない。
 常に幸福でなければならない。

 このようなストイックにも過ぎる美学をすばひびをやり終えたあとでも信じ貫いてきた人は一人もいないはずである。永遠の生きる意志などというものが無いことを現実に生きる人間は身を持って知っている。折にふれてすばひびの記憶を思い出すかあるいは音楽を聴くなどをして、その時々の気分の足しにするのが精々である。それではすばひびの信者とは呼べない。すばひびを信じるとは、永遠の実在を信じることである。「そんなことは不可能だろう」と多くのまっとうな人間はその信仰に疑問を抱くことができるはずである。そしてその疑問こそがすばひびの思想が抱える問題点の一つである。それはすなわち「その思想を現実の世界で実現できるのか」という思想と実践の対応の問題である。

4.42 必然の奇蹟

 さくうたがすばひびのその先の物語であるならば、それは思想の先にある実践としての物語であると言えよう。さくうたでは論考やすばひびの思想がごく「当たり前のもの」として書かれている。それが「幸福に生きよ、その先の物語」と呼ばれる所以のひとつである。他にも「ありふれた風景」とか「見慣れた景色」とか「変わらないもの」とも呼ばれる。なんでもないただの日常が「生きる意志の絶対の肯定」という通常ではありえないようなものの上に成り立っている。奇蹟のような必然である。しかしそれがどれほど奇蹟のように見えたとしても、それは神が起こした奇跡ではない。神は奇跡を起こさない。あるとすればそれは必然としての奇蹟である。通常、人が「奇跡」と言うときには、あり得ないミラクルが起こったとか、奇跡的な確率がどうのとか、叶いそうにない願いが叶ったとか、そういう時に「奇跡」という言葉を使う。でもさくうたで書かれる「奇蹟」というのは、そのようなご都合主義的な恩恵ではなく、すばひびの思想に基づいた必然のものとして扱われる。だから「奇跡」ではなく「奇蹟」と書かれる*3。そしてその奇蹟に対する態度もすばひびから一貫したものが書かれる。

「奇蹟を信じるとは、目で見る事でも、耳で聞く事でも、その場にいる事でも、確証でも無く、ただ信じる事」
(中略)
「でもそれは何でも信じる事ではない。
ただ単に、むやみに、考える事をやめるために信じる事ではない。
考えるのをやめるために信じるのは怠惰」
「言葉の先、語る事すら出来ないその先にある何か、そんなものを信じるのが信心という感じか?」
「だいたいそんな感じですね」
――II 明石小牧 直哉

 奇蹟を信じるとは、神を信じることである。それは言葉の限界まで考えた先に信じられるものである。それはただ信じることによってしか示されない……というすばひびの思想がここで端的に表されている。なぜそれが上記の引用部の第二章の終盤において再度確認しなければならなかったのかというと、この場面以降から通常では説明できないオカルトめいた現象や超科学的なことが散見されるようになるからである。たとえば吹がジャンプして教会の壁に足跡をスタンプしていったことや、雫が直哉の夢を「飲む」ということや、稟が千年桜の伝承を蘇らせたことなどである。それらに物理トリックやSF的考証と呼べるようなものは存在しなかった。しかしそれでいいのである。なぜなら奇蹟としか言いようがないそれらの事柄は、すべて必然の上に成り立っているからである。必然のものとして、つまり永遠のものとして見られた世界には、驚くようなことなど存在しない。なにが起こったのだとしても、それは起こるようにして起こったのであり、したがって当たり前の事実として受け取られるべきものである。だから何も説明されないし、疑われることもない。それは人々の生活のまわりには当たり前のようでいて奇蹟としか言いようがない事柄にたいしてもそういう態度がとられる。

「それまで世界に存在しなかった人間」
「それが、俺と水菜の子としてこの世に産まれてくる」
「それは、ごく普通の事。生物だったら普通の事なんだろうけどな……。やっぱり自分に起きると不思議でたまらない」
「もっとも当たり前でありながら、奇蹟の様な不思議さ」
――IV 健一郎

「……本当に、あなたは、櫻の様な芸術家ですね」
「何度でも、当たり前の風景の様に奇蹟の様な花を咲かせる」
「当たり前の様に咲くから、人はそれを奇蹟だとすら気がつかない……」
――V 稟

 人間はどんなに奇蹟のような不思議さもいつかは忘れてしまうし、どんなに悲惨な現実でもありふれた日常として受け入れることができる存在である。繰り返される日常のなかで美しいものは見失われていくけれど、しかしさくうたの日常は直哉が生きてきた軌跡なくしては成立しえない。彼がすばひびの思想を引き受け、そしてそれを実践する存在であるとすれば、ありふれた日常とはただ生きる意志に満たされるばかりでなく他者との具体的な関わりによって成立していることが示される。そしてその思想と実践の関係は、すばひびの思想の負の側面を浮き彫りにしている。

4.43 神の愛

 ともすれば「世界を生きる意志によって満たさなければならない」というのは、それだけで完結してしまい、そこから実践を通して世界と関わっていくことを肯定もしていなければ否定もしていない。すばひびでは皆守がピアノを弾いたり、希実香が警棒で屋上の鉄柵を叩くなどをして旋律を響かせることによって他者とのかかわりの実践としていたが、その反面、美しい旋律と美しい言葉が同じ大きさであるというのは、本来ならばそれはそれで思想として完結しておりその先に実践が無くてもよいと捉えることもできるものである。そのような地上に生きる人間のものではない、超越した視点から世界を俯瞰する態度がさくうたでも書かれている。

 彼女は人の感情というものを愛していた。それがどんな汚いもの醜いものですら、愛していた。
 彼女にとっては、綺麗なものも、汚いものも、すべてが世界であり、描く対象だったのだろう。
 そんな稟を見て、いつか健一郎さんが言っていた。
「神がいるとしたら、そいつにとっては、世界の美しさも醜さも、共に愛するべきものなのだろうな……」
「神は無限の慈愛に満ちているからこそ、残酷なんだよ……」
――A Nice Derangement of Epitaphs 雫 健一郎

 このようなただ俯瞰しているだけで他者にまったく干渉しない態度はすばひびで示された思想の実践を欠いたものである。すばひびでは肯定的な印象をもって示された神の意志も、見方を変えれば狂気じみた相貌を見せる。普通に考えれば永遠に何かを愛するということは不可能なことのようにも思えるが、稟によればそれは可能なことなのかもしれない。しかし現実を生きる人間は稟のような超越的な態度を一貫してとれるわけはなく、他者と関わることでしか生きることができない。そしてそうだと分かっていても人が本能的に他者と関わることを避けることは多分にしてあるし、いわゆる哲学病を患っている人は自らの思想信念にひきこもりがちである。だから直哉がその負の側面を一身に引き受け、行動することによって自らの生きる意志と他者の幸福を実現していかなければならなかった、と見ることもできる。稟が直哉の行いを奇蹟と称するのは、その身を削るような善行が必然なものとして、あるいは当たり前のものとして現れているからである。稟があらゆる醜美を愛することが必然であれば、直哉が他者の痛みに関わることもまた必然である。しかし彼らは完全なものではなくともに弱さを持った人間である。それゆえに思想や価値は時間とともに推移
していくものとして示される。

4.44 時間

 永遠の実在に関する問題も実践に関する問題もまだ残されている。その問題が徐々に浮き彫りになっていくのはIV章のはじまりからである。
 IV章のはじまりから止まっていた時間は動き出す。健一郎が自分の過去の話を若田に聞かせていた満月の夜、それは推移する時間のなかにあった。そこにはそれまでの物語で書かれた永遠に続くかのような日常はなく、論考にあるような「人は死を経験しない。ゆえに人は永遠の生を生きる」という抽象的な戯言もない。健一郎の死は変えようのない事実として確実に迫ってくる。永遠の生などどこにも無いが、しかしそれは完全に否定されたわけではない*4。さくうたはすばひびの梯子を登りきったその先の風景である。時間のなかを生きるとは、その先を歩いていくことである。だからIV章とその先、つまり亡くなった健一郎の葬式から始まるOP、それ以降のI章、II章、V章は、ひとつの連続した時間として再認識されなければならない。そうすることでIII章とその他の各章は明確に線引きがされ得る。そうすることによって、II章の終わりにプールから花火を見上げる直哉の独白が重要な意義を持つようになる。

 永遠なんてものは無い。
 当たり前の様に、始まりがあって終わりがある。
 その中身がどんなに輝いていたとしても、どんなに美しいとしても……それは終わる。
 花火も終わる。
 あと数発。
 あと数分。
 力強く空を染める花火も、
 無音の空の中に消えてゆく。
 だから今だけは……。
 その終わりの事など考えずに、ただ素直に、
俺たちは花火を楽しんだ。
 夏の終わりに……。
――II 直哉

 永遠なんてものは無い。この言葉から続くのはIII章の物語ではない。健一郎が病床にあったころから、いや、少なくとも健一郎と水菜が出会った頃から一つの連続した時間の先において、花火を見上げているものとされなければならない。夏の終わりの幸福は、その瞬間において世界に満たされるものかもしれないが、しかし永遠に続くものではない。ここから先は終わりなき日常とか、無限ループする夏とかいうものは存在しない。直哉の永遠の否定の先には、ムーア公募に向けて圭とともに絵を描いていく日々がある。時間が確実に過ぎていくのは当たり前のことである。そしてそれがすばひびの梯子を登り切った先にある風景である。人は頭の中に住んでいるのでも、概念の世界に住んでいるのでもない。直哉も、健一郎も、稟も、みんなも、過ぎ去っていく今を生きている。しかしそれでも永遠の相は可能である。永遠の否定のその先には、ひとつの神と、ひとつの永遠の相が示される。その一方は櫻の森の上を舞い、一方は櫻の森の下を歩む。これからの幸福の瞬間は、私が生きている現実とも対応しているものとして示される。



「円環の現在 下」へ続く
http://d.hatena.ne.jp/tono_d/20160129/1454063235

*1:梯子をのぼりきった者は、梯子は投げ棄てねばならない。

*2:ウィトゲンシュタイン『草稿』1916.7.29

*3:例外的にZYPRESSENでは「奇蹟」ではなく「奇跡」と書かれる。これは視点人物である優美が奇跡を必然のものとしてではなく「恩恵と呪い」という二元論で解釈しているからだと思われる。

*4:(すばひびの思想を)否定するつもりはないですし、今も根本的な部分での僕の人生観は独我論的です。ただ「その先」を語るわけですから、すばひびで語られた思想というのを再度点検しなければならない。――アートワークスp65