サクラノ詩 生きる遺志を継ぐために

「迷走だって、前に進むための糧になる事だってあるんだよ」
「なんだ、そりゃ?」
「いやさ、前に進む力が、大きく後退させる事だってあるって事だよ」
 そう言うと圭は一枚のアルバム*1を俺に渡す。
「なんだこれ?」
「オススメの曲。サンフラワーって曲が格好いいぞ」
「向日葵か……。まぁ、あまりうるさい曲は好きではないが、一応借りておくよ」
「ああ、是非聴いてくれよ。俺が大好きな曲だ。『モッド・ファーザー』だぜ」
――V

01. Sunflower
02. Can You Heal Us (Holy Man)
03. Wild Wood
04. Instrumental (Pt 1)
05. All The Pictures On The Wall
06. Has My Fire Really Gone Out?
07. Country
08. Instrumental two
09. 5th Season
10. The Weaver
11. Instrumental (Pt 2)
12. Foot Of The Mountain
13. Shadow Of The Sun
14. Holy Man (Reprise)
15. Moon On Your Pyjamas
16. Hung Up


01. Sunflower

I don't care how long this lasts
We have no future, we have no past
I write this now while I'm in control
I'll choose the words and how the melody goes

Along winding streets we walked hand in hand
And how I long for that sharp wind
To take my breath away again

I'd run my fingers through your hair
Hair like a wheat field
I'd run through, that I'd run through

And I miss you so, and I miss you so
Now you're gone, I feel so alone
Oh I miss you so

I'd send you a flower, a sunflower bright
'Cause you cloud my days messing up my nights
And all the way up to the top of your head
Sun-shower kisses, I felt we had

And I miss you so, oh baby I miss you so
Now you're gone, I feel so low, oh I miss you so, I do

But I miss you so, oh darling I miss you so
Now you're gone, I feel so low, low, oh I said, I miss you so

All I gotta do is think of you, oh and I miss you so
Baby I'm, I'm afraid to say why, oh that I miss you so
Baby I'm, I'm afraid to say why, oh I miss you so

最果てがどこにあるのかなんて気にしないよ
俺たちには未来も過去もないんだからさ
俺は目に映る風景そのものを描いているんだ
旋律が何を描けばいいのか教えてくれるんだよ

迷路みたいな街なみを 俺たちは並んで歩いていた
あの時の研ぎ澄まされた筆の感覚が懐かしいよ
時が止まったかのようなあの瞬間を今こそ

この筆がお前の筆をなぞるように走っていたんだ
それはまるで絵と遊んでいるみたいでさ
俺は限界まで走り抜けるよ 全力で走り続けるよ

俺がお前に追いついて お前が俺を追い越していく
そうじゃないんだ お前はもういない 俺は一人なんだ
だから桜が最高に綺麗なんだよ

お前にちょーすげぇ向日葵の絵を送るよ
お前を待っているあいだ 本当に寂しかったんだぞ
二人で世界のてっぺんを取ったときにはさ
神さまが俺たちを祝福してくれるんだって信じてた

世界がお前に追いついて お前が世界を追い越していく
お前はもういない つらいけど 俺は一人じゃない

心が身体を追い越して 愛する者は骨になった
お前はもういない 声にならない心の叫びを描いたよ

お前の心はすべて俺が継がなければならない 灰になっても
俺はどうしてお前が死んだのかなんて考えないよ
どうしてお前が死んだのかなんて言葉にはしないよ

02. Can You Heal Us (Holy Man)

Pray for me I'll do the same for you
――祈りが俺とお前を満たすだろう

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。
――中原中也『春日狂想』

 他者の死にたいしてどのような態度が取り得るのか。
 中原中也の『春日狂想』の冒頭の一節は他者の死に対する一つの態度である。それはあくまで一つの態度であり、それより他に方法がない、などということはあり得ない。『素晴らしき日々』では器は生きる意志によって満たされなければならないと説かれた。その思想を受け継ぐ『サクラノ詩』が自殺を肯定することはない。確かに自殺は一つの態度ではあるが、『サクラノ詩』においてそれが書かれることはないし、肯定されることもない。
 Olympiaにおける稟は、記憶を取り戻した際に、屋敷の火災の原因は自分にあり、そのせいで母親が死に、直哉の右腕をも奪ったのだとしていた。そして、その償いとして自殺を選択した。しかし、その後の直哉の働きかけにより、直哉のために生き、生き続けると決意するに至る。それは、生き続けることによって罪を償っていこうという意味ではないし、あえて不幸な生き方を選択することによって償おうという意味でもない。ただ直哉のそばで、直哉のために生きていくこと、それだけが自殺/償いを乗り越えた稟の取り得る最善の選択であった。
 自殺が許される場合には、すべてが許される*2。すべてが許されている世界に、倫理は存在しえない。態度決定とはいかにして生きるかの選択であり、いかにして死ぬかの選択ではありえない。では、愛する者が死んだときには、人はいかにして生きるのか。自殺が許されない場合、なにが許されているのか。

03. Wild Wood

Of The Wild Wild Wood
――お前はこの大地に眠っている

 生まれること、死ぬことを選択することはできない。それは必然/奇蹟として現れるものだからである。しかし、人は意志の力によって世界の見方を選択することができる。

「選択した事に後悔なんてしても仕方がない。それ以外の未来なんてないんだから。正しいか正しくないかはその選択そのものではなく、それを受け入れる態度だけだ……大事なのは物事を選択する事じゃない。選択した事実を受け入れる事。正しく未来を受け入れる事だ」
――Olympia 直哉

 必然なるものとして存在している自己の生にたいして「生きるべきか、死ぬべきか」というような倫理的な命題を提示することは無意味であり、したがって人が直面した事実にたいして問えることは「それは幸福か否か」のみである。それは決定された事実を覆すことではなく、「世界をどのように見れば正しいか」というような倫理的な態度決定である。

「でも、誰でも分かっているはずなんです。人が不可解さの前に立ち、一番大事なのは説明でも解釈でもない事など……その時に、何を感じるのか……それが大事だと思います。だって、それが説明しつくされた後でも、人はその不可解さの前で、何度でも立ち尽くしてしまうのだから……」
――Olympia 直哉

 正しいと思わしきことを選択し続け、最善の道を進んでいったとしても、必然/奇蹟はつねにありふれたものとして、あるいは大いなる厄災として人々の前に立ち現れている。その最たるものが不可解な死であろう。それは何の前触れもなく人々の目の前に現れ、倫理的な判断の可能性を奪い、意志によって世界の見え方を選択する余地をも奪う。死は当たり前のように世界にあふれている。しかし、愛する者の不可解な死は、ありふれたものとして受け入れることができずに、絶望的な印象をもって人の心を支配する。「幸福に生きよ!」の号令は、虚しく響く。



04. Instrumental (Pt 1)

05. All The Pictures On The Wall

Oh oh, now we're left with nothing left to give
――俺たちにはなにも残されていない

「だったら、救わなければ良かったのか? 俺は、あの時、稟なんて救わなければ良かったのか? 俺はあの時に最後の力を里奈のためなんかに捧げなければ良かったのか? 俺は、自分の右腕の秘密なんて隠さなければ良かったのか? 俺は、俺は間違っていたのか!? ちきしょう……。その場、その場で良かれと思っていたすべてが、間違っていたという事か? くだらない善意など出さずに、俺は、俺のために自分の右手を大切にするべきだったのか? そうしたら、圭とちゃんと絵を描けた。圭と本当の意味でのライバルになれた。やつを待たせる事なんてしなかった。どうなんだ? 藍!? 俺は? 俺の選択は? 間違っていたのか!? 俺は! 俺の夢を! ……自らの選択で失ってしまったのか!? 藍!! どうなんだよ! 藍ぃ……」
――V 直哉

 不可解な死とは意味そのものとしての死である。そこには何の説明も注釈もご都合主義もない。現在時性の不可解な死にたいして、ほとんどの芸術家は無力である。時として作品はすでに起こってる事実にたいして了解するため、あるいは意義を与えるために作られるが、不可解な死を前にしてもなお、筆をとり続けることは並大抵のことではない。「大事なことは選択そのものではなく、選択された事実を受け入れること」であるとする直哉の態度決定も、事実を前にして簡単にねじ伏せられることとなる。理屈や哲学を用いたとしも、不可解さや痛みを了解するためには時間が必要なのである。
 直哉は過去に水菜の死と健一郎の死を受け入れている。水菜の死に関しては作中では多くは語られていない。しかし、彼女の死は直哉にとって不可解な死として捉えられたはずである。直哉は母親の死を悲しまないような人間ではありえないし、「中也の『春日狂想』の冒頭の一節の意味をずっと考え続けていた」という行為にも、母親の死を了解できずにいたことが表れている。他者の死については「なぜ」と問うこともできなければ、語りつくすこともできない。しかし、芸術ならばその死に意義を与えることができる。長いあいだ考え続けた果てに、直哉は『櫻日狂想』を描き上げ、それを水菜の死への別れと鎮魂の意とした。不可解な死は作品を通じて了解されたのである。そして直哉は、父親の死もまた作品によって了解する。

 草薙健一郎の死は、了解されるべき死。
 了解されるために、俺と親父は何度も言葉を交わしたし、言葉ではない会話もした。
「墓碑銘の素晴らしき混乱」
 あれは、その了解としての儀式であった。
――V

 了解されるべき死とは意義を与えられた死である。その死は作品が描かれる前に現れたのではなく、作品が描かれた後に現れる。それは水菜の死のように、死が先にあってその後に作品が描かれることによって了解されたというものではない。了解されるべき死には絶望も不幸もなく、ごく当たり前の風景として残された者に受け入れられるのみである。では、その死を追い越した作品とはどのようなものか。

06. Has My Fire Really Gone Out?

Has my fire really gone out?
――秘められた炎は燃えているか

 死を追い越した作品は墓碑銘と呼ばれる。病状が悪化したために帰国した健一郎の余命はもう長くはなかった。約束された死が訪れたならば、墓の下に眠り、墓石に墓碑銘が刻まれることとなっただろう。しかし、直哉が『六相図』を描き上げたことによって、健一郎の生には仮象の死が与えられる。

「これは俺の作品じゃない」
「俺の死のために、草薙直哉が描いてくれた作品だ」
「俺の墓は花であふれているだろう。だがそんなものは見せかけだ。本当の墓は、この絵の傍らにある」
「……今夜、ごく先刻、俺は死んだ夢を見た。妙なことに、それは、俺が幸せに暮らした瞬間だった」
「直哉、ありがとうよ」
「俺にふさわしい絵だ。こういう絵こそ、俺の死に捧げられる作品だ……」
――A Nice Derangement of Epitaphs 健一郎

 死の意味の取り違いが、より素晴らしい死の意義を生む。「墓碑銘の素晴らしき混乱」と呼ばれるのはそのような作品である。健一郎が息を引き取ったのは『六相図』が描かれてから三か月後。それは唐突に訪れた死ではなく前もって宣告されていた死である。なにより、直哉自身の手によって父親の死の瞬間を閉じ込めた永遠として作品を描いたからこそ、それは直哉にとって了解されるべき死として受け入れられる。了解されるべき死に神秘などないし、感動も絶望もない。その死は意義によって満たされている。だからこそ、健一郎の葬式の日を直哉は平坦な気持ちで迎えることができた。
『横たわる櫻』もまた水菜の墓碑銘として描かれたものだろう。しかし、健一郎と同じように、水菜はあらかじめ死期を宣告されていただろうか。それは作中において明示されていないが、少なくとも水菜の死は健一郎にとって大いなる絶望をもって迎えられたようである。死よりも先に作品によって墓碑銘を刻むことができれば、愛する者の死を了解されるべき死として受容することができるが、そうでなければ、その不可解さにたいしていかに向き合うかを選択しなければならない。そして、芸術家としての健一郎が取りうる最善の選択は「作品を作ること」であり、それより他に方法はない。
 そうして描かれたのが『横たわる櫻』であり、それは『春日狂想』のように別れや鎮魂のために描かれたのではなく、愛する者の墓碑銘として描かれた作品であった。水菜の肉体は火葬され灰になるが、心は作品の中に埋葬される。沈黙のなかで研ぎ澄まされた意義だけがそれを可能とする。芸術家としての健一郎は『横たわる櫻』を描くことによって水菜の死を作品の中に閉じ込め、『六相図』を見ることによって自己の死を作品の中に閉じ込めた。他者/自己の死は、時間の経過によってではなく、作品を通じて了解されたのである。そして、水菜と健一郎の死の瞬間は『櫻七相図』となって、永遠の中に閉じ込められている。


07. Country

If you want I'll take you there
――どこまでも一緒に行こう

 現在時性の不可解さにたいして、ほとんどの芸術家は無力である。しかし、例外的にその不可解さに拮抗しながら、作品を描き切ることができる芸術家も存在する。

「雫や草薙くんが私のために、ずっと隠し通していた事……、すべて私は思い出しました……だから……」
 稟は言葉をつまらせる。
「あの絵はそういうものなんだろうな……」
――V

「人が描いた、それではない……ですか。たしかに、そうかもしれませんね……。だって、すべてが帰ってきて、私がやった事は……圭くんの死を悲しむ事でも、自分の母親の死を悲しむ事でも、自分の愚かな行いを悔やむ事でもなく。ましてや、皆に対しての償いでもなかった。私がやった事は、ただ絵を描く事でした。圭くんの訃報、みんなが悲しむ中……それでも、私はひたすら絵を描き続けた。ただ描き続けた。描き続けたんです……」
――V 稟

 記憶を取り戻した稟は、後悔と罪の意識と混迷のさなかにあったはずである。健一郎でさえ、水菜の死に直面した際には深く絶望し、そして長い葛藤の果てに墓碑銘を刻み、その死を了解した。しかし稟は、圧倒的な不可解さを前にしてもなお、絵を描くことができたのである。それは彼女が常軌を逸した天才であるがゆえに、人間的な感情を忘れてしまったからだろうか。愛する者の死を了解せずとも、美の神に奉じていればそれでよいのだろうか。V章の終盤や、VI章の病院の屋上での稟を見るとそのような印象を受けるが、隠された真意は別にある。
 稟が描いた『墓碑銘の素晴らしき混乱』と名付けられた絵画については、作中では視覚的に表現されておらず、上記の引用部以外ではほとんど語られることはなかった。なぜ稟がその名前を作品に付けたのか、なぜそれは描かれたのか、という疑問に関しては数少ない情報から推測するしかない。仮に、健一郎が言う「墓碑銘の素晴らしき混乱」と同じ意味で稟がその言葉を使い、かつ、作品に名づけたのだとしたら、その作品は不可解な死を了解するために描かれた墓碑銘であると言えるだろう。そうであるとするならば、稟にとっての不可解な死とは圭や母親の死だけだっただろうか。そうではない。稟は他者の死を了解するためだけに墓碑銘を刻んだのではなく、すべての過去/在りし日を了解するために墓碑銘を刻んだのである。
 人が不可解さの前に立った時、問われるのは「選択してきたことの善悪」ではなく「選択された事実をどのように受け入れるか」という態度決定であるから、墓碑銘が過去について何かを選択できるとするならば、それは善悪ではなく了解である。Olympiaの稟は、直哉の右腕を奪ったこと、母親が死んだこと、記憶を失ったまま日常を楽しんでいたこと、それらすべての罪/在りし日にたいして、直哉のために生きると決意することによってその償いとした*3。しかし、稟は記憶を取り戻し、芸術家となった。だから、在りし日への取るべき選択/償いは芸術家としてできる最善なもの、「作品を作ること」となる。そうして描かれた『墓碑銘の素晴らしき混乱』に与えられた意義とは、在りし日への決別と御礼である*4。過去の選択について善悪を判断できることなどなに一つ存在せず、だからこそ稟はこれからいかにして生きるべきなのかということを作品を作り続けることによって表明していく。
 すべての在りし日、その瞬間を閉じ込めた永遠、『墓碑銘の素晴らしき混乱』とはそのために描かれた作品であり、美に呪われた少女として、美に奉じるためだけに描かれたのではなかった。しかし、他にもまだ隠された真意がある。それは、直哉の夢と未来に向けられたものである。



08. Instrumental two

09. 5th Season

Hope the seasons changes soon
――季節は何度でも巡ってくるだろう

 あいつが死んだ日から、すべての時間が俺の中で止まってしまった。
 だから、稟はさらに先を歩き出した。
 俺が立ち止まった場所から歩き続けた。
 まるで圭の遺志を継ぐかのように、筆をとり描き続けた。そして、今ではあの草薙健一郎すら霞むほどの存在となった。
 圭の死と俺の腕。
 それを埋め合わせるかの様な活躍。
 たぶん、あれが、あいつなりのけじめの付け方だったんだと思う。
――VI

 稟は在りし日に墓碑銘を刻むことによって、すべての過去を了解した。だから、これから一生をかけてその償いをしていくというわけではないし、これから描いていく作品のすべてが在りし日への墓碑銘であるというわけでもない。では、稟はなんのために作品を作るのか。「美への献身」をのぞけば、それは直哉ただ一人のためであると答えることができるだろう。
 VI章の直哉には、稟が圭の遺志を継ぐかのように世界で活躍しているように見えている。しかし、それは本当にそうなのだろうか。直哉の主観は、特に周囲の人物への評価はかなりあてにならない*5。であるなら、稟が絵を描き続ける理由は他にあると考えてよい。
 稟が健一郎の紹介で雫と出会った頃、伯奇神社の桜の木の下でこんなことを言っている。

「どんな絵描くんだろう。いつか一緒に絵描きたいなとか思ってるんだよ」
「いつか? 今じゃだめなの?」
「うん、私が圧倒的な力を得るまではだめだと思う。たぶん、呑み込まれちゃうよ」
(中略)
「なおくんは、そういった因果交流でひときわ輝く存在。そこが私と違う……。だから、いつか、私は、私の絵となおくんの絵が交流し、その因果で世界を映し出せたら良いと思っている。だから、まだ早いんだよ……」
――A Nice Derangement of Epitaphs 稟 雫

 直哉は自身の才能を過小評価しているが、幼少期の稟は直哉を「櫻の芸術家」と呼び、その大きな力と才能を認めている。しかし、それは6年以上前の出来事であり、V章の終盤の稟、そして10年後が舞台であるVI章の稟がどれほどの「圧倒的な力」を得たのかは分からない。しかし、まだ直哉の力に呑み込まれるほど力をつけていないならば、直哉と交流するのは「まだ早い」としていると考えることもできるだろう。仮にそうであるならば、すべては直哉のため、いつか直哉と絵を描きたい/作品を作りたいという自身の夢のために、稟は筆をとり描き続けていると考えられる。それは、圭の「直哉と世界の頂点に立つ」という夢を継ぐためでもなく、直哉の「圭と世界の頂点に立つ」という夢を継ぐためでもない。稟が世界的に有名な画家として活躍し続けているのは彼女にとっては副次的な意味でしかなく、ただ直哉といつか交流するための圧倒的な力を身につけるために描き続けている結果として作品が生まれているのであり、それは世に認められるために描いているわけでも、世界の頂点に立つために描いているわけでもない。芸術家としての稟のすべては、美の神と直哉に捧げられているのである。

10. The Weaver

Hide behind your wall and start-
――お前の迷走と前進は秘められ

 圭の遺志は、稟の墓碑銘のその先へと受け継がれたわけではなかった。しかし、それは彼の遺作となった『向日葵』へと受け継がれている。圭の身体は力尽きたが、その遺志は作品として昇華され、永遠となった。直哉のマンションの一室で、生の限界まで筆をふるった圭の意志は、遺志となって『向日葵』の中で燃え続けているのである。その心と身体が引き裂かれるかのような緊張した状態のありのままが『向日葵』に表れている。

 静かに佇む二本の向日葵。
 だが、それは、こちらに迫り来る様な強烈な印象を与える。燃えている様な、狂っている様な……。
 揺らめいている様であり、不動である様であり。柔らかそうであり、鉄の様に鋭そうであり、血が滴る様であり、凍り付いた瞬間の様であり……。
 真逆の印象が強く、画面を拮抗している。
 それが見る者の視線に緊張感を与える。
――V

素晴らしき日々』における向日葵は、供花として見られたり、死者の世界と生者の世界の狭間にある坂道に咲いているもの、死と生の間で常に葛藤しているものの象徴として書かれていた。また、悲惨な現実をただ見下ろしているだけの神、その隠喩としての月の下に咲く向日葵は、花びらがしおれ、俯きがちになりながらも、したたかに大地に根差し立ち続ける生の意志の現れである。その一方で『向日葵の教会と長い夏休み』における向日葵は、ギラギラした生命力の象徴として辺り一面に咲き誇っていた。大きな不幸も厄災もない牧歌的な風景の中で自然と向かい合って生きる、ただそれだけの日常の中で、生きることの素晴らしさや美しさを見つけていこうという力強い肯定の表明であった。
 これらの例のようにケロQ・枕の諸作品を通じて重要なモチーフとして書かれてきた向日葵は、『サクラノ詩』においては絵画というかたちで登場した。それは、直哉と圭が互いに競い合うことで己の限界を超克していくさまを表しているようでもあり、また、圭の意志が身体の限界を追い越すほどに高みへと目指しているさまを表しているようでもあるが、それだけではなく、あらゆる両義的な葛藤を表していることが上記の引用部からも察せられるだろう。そして、本ブランドの過去作に倣えば、その葛藤の中心にある主題は「死と生」であろう。『向日葵』は「死と生は再び発見される」ということを、見る者すべてに直感的に訴えかける。死は生によって発見され、生は死によって発見される。「二本の向日葵」という分かりやすい構図で象徴的に描かれることで、「死と生」をありふれたものとして認識しない/させないような絶えず変化し続ける両義性が表される。『サクラノ詩』は「幸福な生」を主題として作られた作品であるが、しかし、死を書かないことには生の本質に迫ることはできない。死は、本作の至るところに影を落としている。



11. Instrumental (Pt 2)

12. Foot Of The Mountain

But she slips away - oh, and never stays
――あいつが立ち止まることはもうないだろう

『向日葵』に見られる「死と生」の葛藤は、ZYPRESSENの回想部における「櫻と糸杉の協奏」にも見て取ることができる。
 里奈が自身の死を了解するために描いていた糸杉のオベリスク/墓碑銘は、後期印象派の画家、ゴッホが自殺の間際に描いた『糸杉と星の見える道』に影響を受けている。里奈は、宮沢賢治の作品で綴られる自己焼身の物語が、ゴッホの糸杉を題材にした作品群を意識しているであろうことを指摘する。

宮澤賢治には、たぶん、あの糸杉。ZYPRESSENは、空に届く黒い炎に見えたのだと思う……。夜空で炎になり、輝き続ける物語群……。それは、たぶん天にまで届く、黒い炎。蠍のまっ赤な炎であったり、よだかのまっ青な炎であったり……、黒い炎、糸杉はそういうもの」
――ZYPRESSEN 里奈

 後悔や罪悪感のために、神さまにお願いをして醜い身体を炎で焼き尽くし、空に輝く美しい星になろうという焼身願望の物語は、死を了解しようとする里奈にとっては都合の良いものであった。ときに作品は不可解さを了解するために作られるが、里奈のそれは了解/受容などではなく甘受である。生の可能性があるのにもかかわらず死を甘受することは自殺するのに等しい。『サクラノ詩』では自殺は許されていない。よって、その鬱屈した死生観は櫻の花吹雪によって生の実感と衝動に変えられる。『向日葵』は画面の中で真逆のイメージが永遠に葛藤し続ける作品として描かれたが、「櫻と糸杉の協奏」における「死と生」は葛藤の果てに生が死を追い越し、嵐によって作品が失われても、その意義は里奈の心の中で生き続けるだろうということが示された。
 糸杉の公園から直哉が立ち去った後、里奈は優美に本心を告げる。

「夏の終わりに手術するんだよ……単にそれが怖いだけだった……。だから、一生懸命、死を受け入れる準備をしていた。死んでもいいや。と思えれば、手術も怖くないとおもったから……でも、違った。手術受けて、病気治して、日の光の下でもスケッチしたい。あんな絵見せられたんだから……。生きたい……」
――ZYPRESSEN 里奈

 死への態度は了解や受容だけではない。「分からない」というような判断の保留もあれば、甘んじて受け入れるという選択もある。その死が決定的かつ運命的に約束されたものであるならば「生きたい」という儚い意志だけでは無力であり、必然/奇蹟の前に抵抗することもできずに死の運命に屈するのかもしれない。しかし、「生きたい」という意志と、直哉に与えられた意義としての倫理と、『サクラノ詩』に普遍的に満たされている「幸福に生きよ!」の意味としての倫理が一致することによって、その意志は「倫理の担い手としての意志」として、死の運命の限界を超えてその先の生へと至ることができる*6。このようにして、死への態度は了解されるべき生へと転じられる。その先の里奈の生は、外見だけが美しいものとして評価されるのではなく、生きる意志によって満たされた心こそが美しいものとして評価されるだろう。人の生が永遠の相のもとに見られるのは、意志/倫理の光に照らされている瞬間である。

13. Shadow Of The Sun

In the shadow of the sun
――死によって生は輝く

 墓碑銘から了解されるべき死までの三か月間、健一郎の生はどのような状態だったのだろうか。墓碑銘のその先の生とはどのようなものか。
 健一郎は直哉の描いた『六相図』を自らの墓碑銘とした。それは本来的な意味での死を、与えられた死の意義によって受け入れたことを意味している。前もって死を受け入れる準備をしていたとしても、取り乱すことなく、恐怖することなく臨終の日を迎えられる人間などそうはいない。しかし健一郎は『六相図』により与えられた死の意義/仮象の死によって、死の瞬間を経験した。その先の生は「死後の生」とでも言えるものであろう。「死とはなにか」「死んだらどうなるのか」と問うまでもなく健一郎の死は作品の中で沈黙し、なにも語ることはない。死への態度も感情も痛みも、そのすべてが研ぎ澄まされた意義として作品の中に閉じ込められている。しかし、それでも健一郎の身体は確かに生き続け、病床の苦痛はつねに身体を蝕み続ける。

「心と身体なんて、単に見方の差でしかないんだけどな……。その二つはまったく同じものだ……。にも関わらず、人はそこに心を感じる。人が感じるからこそ、心は存在する。そして、心というものはしばし、人を苦しめ、その身体をも蝕んでいく……。でも、人は心があるから幸福も感じる事が出来る」
――IV 健一郎

 心を感じるとは、身体に意義を見て取ることである。身体が存在するとは、そこに意味が存在するということである。身体がなければ心は存在しない。意味があるからこそ意義がある。しかし時として、心はあるはずのない痛みを生み出し、身体をも蝕んでいく。痛みは確かにここにある。しかし、それは意味/身体の痛みであって、意義/心の痛みではない。その痛みは変えようのない必然/奇蹟であり、受け入れる以外に選択の余地はなく、変えることができるのは心の痛みだけである。
 苦痛であることは不幸なことではないし、その身体が穢れているわけでもない。快楽だけが幸福なわけではないし、過ぎ去った日々だけが美しいわけでもない。すべての最高には、最悪がべっとりとはりついていて、すべての最悪には、最高が燦然と輝いている。ならば、心の痛み/意志が選択するべきなのは、幸福な世界なのか、不幸な世界なのか。

「……今夜、ごく先刻、俺は死んだ夢を見た。妙なことに、それは、俺が幸せに暮らした瞬間だった。俺の夢の中で、白い翼をもった一人の天使が、微笑みながら、俺のところにやってきた。その傍らには、たいそう大きな砂時計を持った老人がいる。わたしに訊ねても無駄だよ。と天使は俺に言った。わたしには、お前の考えが分かっている。そのうち、無限が案内してくれるように、この老人に頼むがいい。そうすれば、神がお前をどうなさるおつもりかが分かり、現在のお前がことさらに未完であるという意味を知るだろう。創造主の仕事が、ただ一日だけのものなら、それはどのようなものになるか? 神は決して休息されないだろう……。なるほどね……」
――IV 健一郎

 病床の健一郎が引用したのは、ゴーギャンが死ぬ間際に書き残した『死の帝国』と題された短文である。この文章では、自分という不完全な作品が神と無限によって満たされたのだということが示されている。ゴーギャンが最後に描き残した遺作は、自らの死を了解するために、自殺するために描かれたとされている。彼の宗教観は汎神論的かつ仏教的であり、自らの肉体が滅びても、心は神/美に満たされるだろうと考えていた。その「生は死によって完成する芸術作品である」というような思想が、ゴーギャンを自殺へと導いたのではないかと予想される*7。その器は死の意志によって満たされている。世界に絶望し、自らの生が不幸なものであるとする意志は、倫理と一致することが可能だろうか。否、『サクラノ詩』において意志と倫理が一致するのは幸福な世界以外にはあり得ない。

 幸福は仮象の春色一面の空の様なものだ。
 まるで、本体などなく、なにかの拍子に、きらきらと立ち現れる、色彩過多の電燈群の様。
 あの日、見た桜と一人の少女。
 あの風景は、私を追い越して、何処かへ行ったのか?
 それとも、俺が何処かに、置き忘れてしまったのか?
 七つの苦しみと、七つの幸福。
 それらの間で、俺たちは揺れ動く。
 まるで振り子の様だ。
 だから――
「笑って乾杯してくれや」
「俺のここまでの人生に」
「これからの幸福の瞬間に」
――IV 健一郎

 死の床にある健一郎の生が永遠の相のもとに見られた世界であるためには、その身体の痛みをも超えた幸福の意志によって満たされているものでなければならない。心は痛みを感じることもあれば、幸福を感じることもできる。人は生まれること、身体がここにあること、死ぬことを選択することはできない。身体の痛みが不可避なものであるならば、選択できるのはその先にある心のあり方である。
 仮象の幸福と仮象の死は、健一郎の身体の限界を追い越し、その先の死後の世界でふわふわと包まれている。死と生、夢と現実、記憶と奇蹟、春と修羅の境界で俺たち/みんなは振り子のように揺れ動く。水菜と出会ってからともに過ごした幸福な日々、それ以上の幸福の瞬間、それはあらゆる狂気と混沌がせめぎ合っている今この瞬間に他ならない。天来の美酒は、今この瞬間にこそ開けられるべきなのである。
 そして、そのような幸福の意志によって満たされた世界を率直に表しているのが、心象スケッチとして書かれた『櫻ノ詩』*8である。

14. Holy Man (Reprise)

Can you heal us Holy Man
――ヒーローは必ず現れる

「因果交流」という語を見ると、人生は一つの大きな因果律にみちびかれて動いている、と考えていたようにも思われます。それから、連続のしかたとしては、単純に変化なく進むのではなくて、「せはしく明滅しながら」の連続です。そして、「ひかりはたもち」というように、彼の精神のたどった道程、すなわち、「心象スケッチ」の軌跡は永遠に残ってゆくのです。
――恩田逸夫『宮沢賢治論1 人と芸術』123p

 心象スケッチとは、見えている風景のありのままを記録した言葉である。賢治が『春と修羅』に書かれた詩を、「詩」ではなく「心象スケッチ」であるとしたのは、自分に見えているもの、感じられているものが紙面にそのまま言葉として記録されているからである*9。その言葉は「書かれた」のではなく、「記録された」のである。健一郎が水菜の暗唱する『春と修羅』序の一節を聞いた時に、後期印象派を感覚的に連想したのは、それが言葉ではなく、風景として感じられたからである。それは健一郎が感じた風景でもあり、その詩を書いていた時の賢治が感じていた風景でもある。水菜の暗唱を聞いている時、その瞬間において、健一郎と賢治の心はある程度まで共通していたのである。そして、それは確かに実在する風景として目の前に現れていた。心象スケッチを共有するとは、文字や音のリズムやイメージを共有することではなく、心/世界を共有することである。
 心が感じているのなら、それは意義として実在していると言える。健一郎が賢治の心を感じているのなら、その瞬間において、賢治の心は健一郎の心の中で実在していると言える。例えば、賢治が「虚無」を心象スケッチしたなら、それは確かに「虚無自身」として賢治の心に実在し、それがそのまま記録されたとおりの言葉として活字となり、そしてそれを読んだ人の心のなかにも実在する風景として現れるのである。そして、ここで言われる「虚無」や「虚無自身」というのは、語りえぬもの/意味ではなく、あくまで心の中に立ち現れる風景/意義を対象としたものである。意義は言葉にできるし、語ることを許されてはいるが、しかし、それを可能とするのは研ぎ澄まされた意義として写された「心象スケッチ」のみである。
 健一郎の『櫻ノ詩』が詩として書かれたのではなく心象スケッチとして記録されたものであるということは、その詩に賢治の『春と修羅』序の一節が引用されていることからも察せられるだろう。しかし、そこで表現されているのは「序」にあるような賢治の汎神論的思想だけではない。『櫻ノ詩』には冒頭の一節の「仮象のはるいろそらいちめん」にあるような、幸福の意志が歌われている。この詩は『横たわる櫻』のキャンバスの裏側に書かれたものだから、製作期間中のいつの日かに書かれたのだろうと推測されるが、おそらく、健一郎が絵を描き上げた時に、まさにその瞬間に、その心象をスケッチしたものとして記録したのであろう。『横たわる櫻』によって水菜の死を了解し、絶望する心を克服した瞬間、健一郎の心は幸福の意志によって満たされ、そして、それを言葉として記録したのである。そして、それが幸福ならば幸福自身がそのとおりで、その瞬間の心象は『櫻ノ詩』となって、それを受け取る者の心へと受け継がれる。

15. Moon On Your Pyjamas

Got the moon on your pyjamas
――月を本物に変えるのは君だ
And the stars in your eyes
――星は君の瞼の裏側で輝いている

……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……
われらの前途は輝きながら嶮峻(けんしゅん)である
嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である
――宮沢賢治『農民芸術概論綱要』

サクラノ詩』は宮沢賢治の『春と修羅』序の一節の引用から始まっている。そのことは、『サクラノ詩』が賢治の汎神論的かつ仏教的な世界観を反映していることを示している。また、病床にあったときの健一郎が法華経の関連書を読んでいたことから、彼も賢治に思想的な影響を受けていることが伺える。そして、その健一郎の思想は『素晴らしき日々』において提示された独我論実在論*10の、その先の幸福像を示しているものと考えられる。
 IV章では健一郎の死の瞬間は書かれていない。物語の終わりから彼がどれだけ生きて、いつ死んだのかは明確にはされていない。しかし、それは『サクラノ詩』において重要なことではない。生は死によって完成する芸術作品ではないからである。健一郎は、これまでの人生とこれからの幸福の瞬間に笑って乾杯してくれ、と言った。それは「自分が死ぬ瞬間まで」という意味だったのだろうか。「これからの幸福の瞬間」は本当にそこで終わったのだろうか。

「料理にも心があるの?」
「なんにでもあるというわけじゃないさ。ただし、あんたが、そこに心を感じたら、そこには心がある。そこにも、そして、自分自身の中にもさ」
「心っていろいろな場所にあるの?」
「そうだねぇ。昔の人はそう考えていたさ」
「昔の人?」
「そうさ、昔の人は頭が良かったから、それこそ、木々や石や川なんかにも心を感じたのさ、心は人のものだけじゃないってね。それは、とても正しい世界の見方なのだと思うよ。私は……」
――A Nice Derangement of Epitaphs 雫 琴子

 これまで何度も反復してきたように、問われているのは事実の諸相でも、選択の是非でもなく、世界の見方である。健一郎にとっての「正しい世界の見方」とは幸福の意志によって満たされた世界を見ることであった。そして、健一郎の祖母、夏目琴子によればあらゆるもの/風景に心を感じるのが正しい世界の見方なのだとされている。そして、それら二つの世界の見方は分かちがたく結びつき、『春と修羅』序、および『素晴らしき日々』のその先の幸福像に結実する。
 その風景が見られているなら、それは実在する風景である。そして、その風景に心を感じているなら、その心は実在する。ものや風景そのものに心があるというわけではない。それを見る者に心があり、そしてその者にとって心が感じられた/見られた風景だからこそ心はそこに実在する*11。だから、健一郎の心が自分の心のなかに感じられるとしたら、あるいは、ものや風景に感じられるとしたら、健一郎の幸福の意志、「これからの幸福の瞬間」は感じられているその瞬間において実在しているのである。
 賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない*12」としていた。しかし、「私の限界が世界の限界である」という立場を『サクラノ詩』が取るならば、私の幸福は世界の幸福であると言える。そのために、個人の幸福の意志によって満たされた世界に不幸は存在しないとされるはずである。にもかかわらず、人はそこに苦しみや悲しみを感じる。なぜなら、私の心が世界/他者に心を感じるからである。もし、他者の痛みを解さない人間ならば、私/世界は幸福によって完全に閉じられていただろう。しかし、健一郎は他者を愛する心を持ち、痛みに共感する心を持っている人間である。健一郎の世界が幸福によって満たされているのだとしても、彼の前に不幸な他者が現れたならば、健一郎はそこに苦しみや悲しみを感じる。そしてそれだけでなく、健一郎は行動によって不幸な他者を幸福な他者へと変える。それは意志によってのみ、不幸な世界を幸福な世界に変えるというものではない*13。健一郎の永遠の相のもとに見られた世界は「他者は幸福でなければならない」という倫理と幸福の意志の一致に基づく行動によって、その限界を超えて他者の世界を幸福な世界へと変えることができるのである。
 健一郎の死後、その事実の先に彼の身体はなく、したがって行動によって他者の不幸を幸福に変えることはできない。その先には「これからの幸福の瞬間」があるのみである。しかし、健一郎の血を継いでこの世に生まれた存在もまた、健一郎の誠実さと行動力を受け継いでいる。

「もっとも当たり前でありながら、奇蹟の様な不思議さ。子供を授かるって、本当に不思議だ。ましてや、そいつは、どんどん成長してゆき、いつしか俺の目線も越えて、その先を歩き始める。俺が、ここで立ち止まっても、あいつは、そのままこの先も歩き続けていく……不思議な感覚だ……。血の不思議さ。家族という不思議……」
――IV 健一郎

サクラノ詩』で提示される幸福像は、直哉の誠実さなしには成立しない。誰かの窮状を知ればすぐに行動を起こすさまが物語内で書かれていることから、直哉が他者の幸福に尽力する誠実さを持っていることが認められるだろう。自分が知り得る範囲の外側にいるすべての人々を幸福にすることはできない。しかし、彼の心が他者の不幸を感じたとき、聞こえるはずのない誰かの悲鳴が聞こえたとき、直哉は私/世界の限界を超えて他者の世界へと手を伸ばす。直哉が「他者は幸福でなければならない」とするのは、それが健一郎から受け継いだ誠実さだからである。そして、直哉もまた子を授かることがあれば、彼の誠実さを継ぐ存在となるであろう。草薙の一族が、その誠実さを後世まで継承していけるならば、彼らと関わりを持った人々は幸福な世界を実現していけるはずである。そして、彼らの尽力によって他者だけが幸福になるのではない。彼ら自身もまた幸福でなければならない。健一郎の死の先を歩む直哉の心のなかには、健一郎が示してきた世界の見方が受け継がれている。それは、愛する者を死んだ時でも、酒を飲みすぎてゲロを吐いて最悪な気分になっている時でも、等しく、幸福の意志によって満たされなければならないという生への了解である。そして、それは直哉や草薙の一族だけの了解ではなく、彼らと関わったすべての人々に、『櫻ノ詩』の心象を共有したすべての人々に受け継がれていく了解である。健一郎のこれからの幸福の瞬間は、その心を感じている瞬間において、その人のそばにある。人が美と向き合った時、あるいは感動した時、あるいは決意した時、その瞬間において、健一郎の心はその人の心のなかにあり、そして、世界は永遠の相のもとに見られる。これからの幸福の瞬間は、みんなのおのおののなかのすべてに受け継がれていく。

16. Hung Up

An' now I'm all hung up again
――「                」

 音楽が終わる。
 懐かしい音楽は終わってしまう。
 再び再生すれば、また懐かしい音は戻ってくるだろう。
 だが、時は戻らない。
「圭……」
 俺はあいつの愛車にまたがり、あいつが好んだ音楽を聴いている。
 それは感傷なのだろうか?
 それ以外の何かだろうか?
「前に進む力が、大きく後退させる事だってある……」
「進化が迷走を生む事だってある……」
「だけど……」
「迷走だって、前に進むための糧になる事だってある」
「そうだったよな……圭」
――VI

*1:1993年にリリースされたポール・ウェラーの2ndアルバム『Wild Wood』

*2:“自殺が許される場合には、すべてが許される。何かが許されない場合には、自殺は許されない。このことは倫理の本質に光を投じている。というのも、自殺はいわば基本的な罪だからである”――ウィトゲンシュタイン『草稿』p.288;1917.1.10

*3:間違ってはならないのは、決意が償いなのであって、生き続けることによって罪を償い続けるのではない、ということである。あるいは「償うような罪はないと了解した」と言うこともできる。

*4:「御礼である」というのはV章ED曲『在りし日のために』の歌詞から予想されたもの。作詞はシナリオを担当しているすかぢ氏の手によるものなので、主題と関連付けてもよいとした。

*5:鈍感主人公だからというのもあるが、稟についての評価/印象は直哉のみならずユーザーも持て余していることと思う。

*6:“仮に意志が存在しないとすれば、我々によって自我と名づけられ、また倫理の担い手でもある、あの世界の中心も存在しないこととなろう。”――ウィトゲンシュタイン『草稿』p167;1916.8.5

*7:ゴーギャンの自殺の要因は、孤独、足の怪我の痛み、経済的困窮、妻の背反と娘の死と様々あるが、ここではその一因として宗教的思想を挙げている。

*8:健一郎が描いた『横たわる櫻』のキャンバスの裏側に書かれた一篇の詩のこと。

*9:以下の引用にあるように、賢治は詩と心象スケッチを区別している。“前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とか完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の支度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。”――[200] 森佐一宛書簡

*10:ここでは特に、独我論実在論とはなにか、は説明しない。公式アートワークスから引用すれば“自分しか存在しない→自分と世界は同等である→世界の外側は存在しない→自分が感じているものこそが唯一の世界である→世界にあるものは実在しているとしか言いようが無い”というようなもの。

*11:多くの宮沢賢治研究者はこの「風景そのもの」と「心の風物」の区別がついていないので調べる時は注意が必要。賢治は仏教的な立場ではあるが、「風景そのものに動物や先祖の霊が宿っている」としていたのではなく、「私の心が感じるからそこに他者の心が宿っている」としていたと筆者は考える。

*12:宮沢賢治『農民芸術概論綱要』より。法華経の根本的思想を表している。

*13:善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、変えうるのはただ世界の限界であり、事実ではない。(中略)意志によって世界は全体として別の世界へと変化するのでなければならない。いわば、世界全体が弱まったり強まったりするのでなければならない。幸福な世界は不幸な世界とは別ものである。――ウィトゲンシュタイン『論考』6.43