サクラノ詩 PicaPicaに触れるために

00,001/ 愛か真か PicaPicaとDown the Rabbit-Hole
86,199/ 鳥谷一族 偽物の系譜
86,299/ 才人の生 真琴と香奈の比較 
86,399/ 大衆作家 白州兎子のこれから
00,000/ 果ての愛 手が届くそばに眠る


00,001/ 愛か真か PicaPicaとDown the Rabbit-Hole

『It's Only A Paper Moon』

I never feel, a thing is real
When I'm away from you
Out of your embrace
The world's a temporary parking place
Mmm , mm , mm , mm
A bubble for a minute
Mm , mm , you smile 
The bubble has a rainbow in it

Say, it's only a paper moon
Sailing over a cardboard sea
But it wouldn't be make believe
If you believed in me

Yes, it's only a canvas sky
Hanging over a muslin tree
But it wouldn't be make believe
If you believed in me

Without your love, it's a honkey-tonk parade
Without your love, it's a melody played in a penny arcade

It's a Barnum and Bailey world
Just as phony as it can be
But it wouldn't be make believe
If you believed in me

【超(いたこ)訳】

あなたのそばを離れれば
夢の梯子を駆け上がる
あなたのぬくもりを失えば
ここは別れを告げる場所
ふわふわと消えるシャボン玉
あなたのやさしい微笑みは
色彩に宿る透明なひかり

手が届くのは紙の月
カササギの橋を照らして渡る
あなたが私を信じたら
きっと本物の月にしてしまう

布でできた木を覆うのは
空の描かれたキャンバス地
あなたが私を信じたら
きっと本物の空にしてしまう

あなたの愛を失えば ただ毎日が過ぎていく
あなたの愛を失えば 旋律は空には届かない

書き割りの様なチープで
出来損ないの夢の世界
あなたが私を信じたら
それは永遠の素晴らしき日々



『It's Only A Paper Moon』は、真琴が閉店後の喫茶店で口ずさんでいた異国の古い流行歌である。「愛があれば紙の月でも本物になる」というようなことが歌われているこの曲には、直哉と結ばれた真琴が、その愛を受容する心理と、それを否定し自らの手で夢を実現しようとする心理の両義的な葛藤が表われている。

「愛を犠牲にして得られるのなら……私は、欲しいものがあるのだけど……」
――PicaPica 真琴

「あなたは優しいから、私が作り出した物が紙の月であっても、それを愛とか、そんな美しいもので、きっと本物の月にしてしまうでしょう。でも、それじゃ駄目なの。私は駄目なの。私は、月には飛べない。でももう、月を求めて泣く子どもじゃない。紙の月では足りない──私のためじゃなく、天才たちのために。私は、本物の月を手に入れる。この手で、作り出すの」
――PicaPica 真琴

 夢/月を手に入れるためには愛を犠牲にしなければならない。本物の月を見るためには、愛する者の腕の中で眠ることを止め、眼を覚まさなければならない。夢の中に迷い込んでいたうさぎは梯子を上り始め、本物/真作を作るためにその眼球を月の狂気に染める。

「Down the Rabbit-Hole I」における由岐は世界/他者の存在を疑うか、信じ続けるかの選択を迫られる。鏡/司を愛しその存在を信じれば、世界は永遠の生とともに存続し続け、ざくろを選んだ場合、鏡と司を含めた他者はすべて世界から消え、彼女の無用な混乱を招くような問いかけで、猜疑心を深めていく。そして、銀河鉄道の車両の中で、現実の自分が持っていた記憶を確認した後、白き無限回廊の先へ進む。

 双方に共通して見られるのは、信じ続けることで約束された他者の存在とその愛を否定することによって、自らが望んだ夢/現実のために芸術/懐疑の梯子を登ったことにある。そしてその果てに彼女らが見たものはよく似ている。それは、最善を尽くし、疑い尽くした先の才能/世界の限界の収束、夢と現実の境目だった。

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 由岐は眼をひらきました。
――Down the Rabbit-Hole I

 白き無限回廊のその先にあるのはなんだったのか。由岐はいついかなる場所で、眼をひらいたのか。そして、月を追い求めるために眼をひらいた真琴は、どこへ行くのか。


86,199/ 鳥谷一族 偽物の系譜

 煙草と、屋上と、ブルースーツが似合ういい女、紗希(鳥谷校長のことだよ)。
 彼女が好んだモチーフであるカササギは、西欧では警戒、告げ口の象徴として広まっているが、狩山青鷺を名乗る彼女にとってのカササギには虚偽や贋作という意味合いが込められている。鳥谷の一族は器用貧乏の家系であるらしく、真贋を見極める審美眼を持ってはいても、芸術的な価値のある作品を作り出すことができない。せいぜいが人を驚かせるような工夫を凝らした作品であったり、精巧な贋作であったりするだけである。その芸術方面での性質が、血によって受け継がれているものとは思えないが、少なくとも紗希や静流(喫茶店のマスター)はそうであったし、その性質を自覚し楽しむことだってできた。同様に真琴も、嘘をつくこと、悪戯をすること、偽物を作ることに才能を示していたが、本人の意図を離れて作品が評価されることを良しとはしていなかったし、また露悪的な態度、傍若無人な態度を取ることにもどこか乗り切れないところがあるようだった。そのことから真琴には、母親や従姉妹が持っていない性格、ある種の生真面目さがあり、それがもの作りにも反映されていることが伺える。

「そして、あの子の描くものは……堅実で誠実だ。今はまだ、思春期独特の切実さがかろうじて……あの子の絵を“見られる”ものにしている」
――PicaPica 紗希

 紗希の評価は真琴が作るものと、それに伴う作者の性格を的確に指摘している。そして真琴の自己評価もおおむねそれに近いものだろう。それはある意味で、真琴の作る作品には芸術的価値が乏しい、つまり偽物でしかないということを示唆している。そしてその、ある目的のために真作を作ろうとする切実さや焦燥が、真琴が自分を欺かなければならない原因となっている。
 紗希と静流は自身が人を欺くこと、贋作を作ることに長けていると自覚し、かつ楽しむこともできるからこそ器用に立ち回ることができるのだが、まだ本性と偽性の間で揺れている真琴は折にふれて、本来彼女が持っている繊細な一面を見せる。

「私は、考えるだけ考えてそれが変に空回りしちゃうけど、マスターも、あの人も、そりゃもう完璧に実行できるだけの頭脳と行動力を持っていた」
――PicaPica 真琴

 真琴の素である良妻賢母的な性格は、嘘をついて世を渡っていくには不似合で、ひいては鳥谷家の露悪性や外交における辣腕さ、悪戯好きな性格などとも背反しているように思われる。その二つの性格の綱渡り的なバランスのなかで生きているからこそ、真琴は紗希や静流と違って空回りする。
 傍若無人設定というのはソフトな露悪ともとれる。それは目的を達成するための外交手段である。欠点を見せず、強い態度を誇示することで、直哉に自分とその周辺の人物が抱えている問題に首を突っ込むようなことをさせず、絵を描くことだけに専念できるようにいつでも支え続けるための真琴の良心であり、空回りなのである。

 作品を作ることによって内面を対象化し、それを通して己の心理を掘り下げていけるようなタフネスを持った芯の強い少女ではあるが、そうして得た自己認識が自身の才能の限界を知らしめる要因となって大きな葛藤を生んでいる。いっそ愚かであったなら、身の程を知らないままに夢を追い続けられたなら、真琴は幸福になりえたのだろうか。


86,299/ 才人の生 真琴と香奈の比較

 真琴と香奈は『櫻日狂想』の影響で絵を描く事を断念したという点で共通している。しかし同じ才人であるのに、真琴はそのまま諦めたままで、香奈はまだ諦めていない。その両者の相違において決定的な要因になっっているのは、他者に対する態度決定である。

 香奈は他者を否定することで、己が信じる美を高めようとする。その否定は存在それ自体の否定ではなく、他者の意義の否定である。他者の存在意義は普遍的に存在するものではなく、私/香奈の経験によって形成される。そのために、香奈が唯一無二の美しいものであると信じていた自己の世界に、圧倒的な価値/意義を持つ直哉の作品に会った時に初めて他者が発見される。
『櫻日狂想』との出会いによって、当人の意思とは無関係に直哉の暴力的な慈愛に曝され、「私/世界には他者が存在しない」という閉じた幻想を破壊される。それで一度は絵を描く事をやめているものの、彼女は再び筆をとり、拒絶する対象としての意義を他者に見出す。
 蹴落とし、嘲り、乗り越えるための他者。私/世界の限界を翔破するための踏み台としての他者。それは弱い神を信じるのでも、強い神を信じるのでもない、比類なき存在としての私(香奈)が信じる神/美に奉ずること、それのみに意義を持つ存在としての他者である。
 香奈は自己の限界が天才の領域にまったく届いていないことを知ることができる。しかし彼女にとってそれは挫折の理由にはならず、克服されるべき障害として定位される。香奈が知っている範囲に、より高い世界、より美しい世界を持つ他者がいる限り、彼女の反芸術主義的活動に終わりはない。

 たいして、真琴にとっての他者の意義とは、まず二人の天才にたいするものと、生活や大衆にたいするものの二つに分けられる。それは彼女の作品の「希少な材料によって偶然生まれた作品」と「再現と量産が可能な大衆向けの作品」との二つの作風に対応する。
 真琴は五度、夢に破れている。月に手が届かなかった幼年期、『櫻日狂想』と出会いそして克服できなかった時、直哉の右手の故障に気付いた時、『六相図』を描いた以後の直哉が描かないと宣言した時、自作が圭に追いつく作品ではないと知った時。真琴の芸術家としての生は夢/月の提示と度重なる挫折の繰り返しである。真琴が幼年期にそうだったように、ただ自己のために月を追い求める者であったなら才能の限界に早期に気がつきその道を断念することができただろう。事実『櫻日狂想』と出会ってから、2年間その作品を乗り越えるためだけに描き続け、それでも乗り越えられなかった時、彼女は澄んだ気持ちで絵を捨てることができた。そして、その作品/作者を愛するまでにもなっていた。
 しかし、自己を救った作者(直哉)は圭にも影響を与え、真琴は二人が競合することで作品を高め合うことを知る。これが真琴の他者の意義における大きな節目になっていて、その時点から彼女の作る意味は自己救済や他者(直哉)の克服ではなく、他者(直哉圭)への奉仕になる。
 二人の天才が互いを高め合うように作品を作り続けられればいいとする真琴にとって、自らの手で作品を作ることには他者に奉ずるという意味合いしかない。しかし、直哉が絵を描けないという事実、『六相図』を仕上げたにも拘らず描かないと宣言した事実によって、直哉の代わりに自分が圭に並び立つ存在にならなければならないという夢/月の狂気に再び目覚める。
 そうして作られたのがオブジェ淘『月の裏側』であったが、それは「希少な材料によって偶然生まれた作品」の最高傑作でありながら、圭の作品を昇華させることができなかった。それが真琴の最善の道の限界であり、才能の限界であったからである。
 帝釈天のために炎の中に身を躍らせたうさぎは天上の月の影になり、そのうさぎが表側にいるならば、裏側にはカササギの影があるのだろう――とは真琴がカササギの鏡の話を紗希から聞いた時に得た着想である。後付けになりはしたが、その比喩は真琴が捨てることのできなかった二つの性格、すなわち月/本物を求める心と、鵲/偽物であることとの決別を意味していた。「これでいい」という宣言とともに芸術家としての真琴の作る意味は終わりを迎える。しかしそれでも彼女には大衆作家として「再現と量産が可能な作品」を作る意味と、それと一致を見せる愛だけが残されていた。

 真琴は自身の限界と他者の関係にうまく折り合いをつけて着地させたために穏やかな日常を手にすることができた。しかし、香奈には中途半端な才人(あるいは凡人)にありがちな続けるか諦めるかの葛藤があり、?以降でも、選択されなかった片側にたいする喪失感や未練がわずかながらに感じられる。直哉の作品の影響をわずかに垣間見せるが、他者の否定を糧に自らの芸術性を高める香奈はそれを受け入れるわけにはいかない。だから、もし彼女が芸術の道を諦め、他者の愛を受け入れることができたならば、真琴のように穏やかな日々を手にすることができるかもしれない。しかしそれは彼女が望むものではない。

「分かるけど……分かってしまうけど。けれども、私は、私が望んだ場所に行きたい。私だって、何処から来て、何処に行くべきか、何者であるか。自ら問いたい……。月はあんた達だけのものじゃない!」
――V 香奈

「これが私の最善。二人の天才のために、私は最善を尽くした。二人がさらに先に行くことを願って、私は月を産みだした。けれど──」
 キャンバスにかけられた鳥谷の指に、力が込もる。
「届かなかった。届かなかったけど……」
「これでいい」
 唇が震えて、背中が丸まった。嗚咽は漏れなかった。
――PicaPica 真琴

 最善の道から来て、最善の道を行く、そして最善を無限に選択し続ける……というようなことができたとしても、才人が天才を凌駕する作品を作ることは可能だろうか。善とはすなわち真理であり、美しいものでなければならない。それは才人達がその眼で見て目指していった、天才とその作品の間にある芸術と倫理の関係だろう。しかし、そうだと分かっていても、才人が求めた真なるものは決して手に入らない。なぜ見ることはできるのに、作ることはできないのか。その手が届く限界とはどこにあるのか。


86,399/ 大衆作家 白州兎子のこれから

「これでいい」――その言葉と共にもたらされた作家生命の一つの終わりは、同時に一つの始まりでもあった。大衆作家、白州兎子としての生である。作らなければならないものではなく、作りたいものを、偶然によって作られるものではなく、手堅く作られるものを、真琴はかねてより欲していた。それが自らの天分であることをよく理解していた。彼女はそれを偽ることを止め、真作でも贋作でもない、人々に広く受け入れられるような実用的で素朴な形の陶器を作っていく。

『つきのうさぎ』は、“ありふれた”という意味です。器とは、指に、手のひらに、くちびるに触れるもの。 うさぎの柔らかさ、つきの静けさ、柔らかく静かで、ありふれて愛おしい器を、お届けしたい
――II

『つきのうさぎ』のホームページにある前書きから感じられる作者のおおらかな人柄は、真琴の喫茶店での茶菓子やコーヒーの話をしているときの往年の夫婦みたいに所帯じみた居住まいや、エピローグで、じっと温かい眼差しでこちらを見つめている姿にもよく表れている。名付け親である静流がうさぎにもっている個人的なイメージ、「いつでも眠たげで、平和そのもの、白くて無害なかわいらしい生き物」というのが兎子の名前に込められた意味らしいが、奇しくもそれは真琴の本質を言い得ていると言えるだろう。
 白州兎子は実生活から得た経験を作品として形にできる作家である。その手によって作られた陶器は他者の手に渡る。そしてその他者は、兎子が伝えたかった触れる喜び、生活にひそむ小さな心の機微への親しみを共有する。
 陶器を満たすもの、それは兎子が自身の生活に向ける想いと、それを受け取った他者の共有された心象である。同じ陶器を触ったとしても、そこに立ち現れる風景は人によって異なるものになる。しかし『つきのうさぎ』作品は、遠くのどこかにいる誰か、言葉の通じない人々にまで同じ生活の風景が届くものになりえるはずである。それは、日常のささいなよしなしごと、語らなくても伝わること、ありふれていてなんでもないこと、その瞬間を閉じ込めた器として他者の手に渡るだろう。

 うさぎが月を追いかけるのを止めたその先にあったふわふわの生、ざらざらした大地。そこにはフェルナンド・ボテロのアリスの庭のネコのような、大きくて、ふっくらしていて、何かがぱんぱんに詰まっているように感じられる器/世界があった。ふわふわもざらざらも、ぜんぶそこに詰まっている。ネコのブロンズはつるつるしているけど、でも、つるつるじゃない。なぜなら、そこは梯子が投げ棄てられた先の風景であるから。


00,000/ 果ての愛 手が届くそばに眠る

 由岐が眼をひらいた先の風景、それは魂が何度もやり直すための地点、音無彩名が立っている屋上である。彩名は“今”がどこかを問いかける。素晴らしき日々、向日葵の坂道、終ノ空II、夢の中……その中から私/由岐は、自分が望む世界を、見たい世界を選択する。
 眼をひらくとは、対象を懐疑することの隠喩である。眼をとじるとは、対象を信仰することの隠喩である。もし、私/由岐が夢の実在性を真に信じる者ならば、ここで選択されるのは「夢の中」のはずである。由岐は夢から覚めていない。であるならば、夢の中で目を覚ましても、それはまだ夢の続きなのである。

「器では無かった世界が満たされた……たぶん、それはふわふわとしたシャボン玉の様な幸せの形……ただシャボン玉の様にふくらんだ、夢幻でありながらも……ちゃんと実在した記憶……」
――Down the Rabbit-Hole I ざくろ

 それが例え仮構の世界でも、存在しない他者であったとしても、信じられたものは、信じることそれのみによって存在が許される。意志の力によって、不幸な世界は幸福な世界に変わる。そうして由岐は、鏡と司とともに過ごす、永遠の生を手に入れる。

 真琴が眼をとじた先の風景、それは愛する人との幸福な日々であった。才能の限りを尽くし、月へ至ることを諦め、そして梯子を外したその先にある風景とはただ信ずることによってのみ永遠に続いていく穏やかな世界だった。器は存在そのものによってではなく、愛とそれを貫徹する意志によって満たされる。

 一生共にいて、一生愛すると誓うのならば、聞きたいことはむしろ今聞かなくてはならないのだと、だからこそ、俺は、つづいていくであろう日常の中で、目の前の愛しい人に問いかけるのだ。
 今、この瞬間にしか意味のない、瞬きような、火花のような、ただのやさしい会話を、くり返し、くり返すのだ。
――PicaPica

 一人の女性に一生を添い遂げる覚悟を持っている直哉と、愛以外にはなにも手に入れることが出来なかった真琴。世界には、二人だけの囁きが響き渡る。持ち上げたコーヒーカップの重さ、取っ手の手触りと縁の口当たり、シフォンケーキが口の中で溶ける舌触り……それらは生活のなかに溶け込んだささやかな幸福の肌触りとして、音もなく世界に響き渡る。人気のない店内で、静かに響き渡る。

 そこにあるものに手を伸ばす。
 私と世界が他者に触れる。
 愛は器に満たされる。

「ほんとうに鷺だねえ。」二人は思わず叫びました。まっ白な、あのさっきの北の十字架のように光る鷺のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒い脚をちぢめて、浮彫のようにならんでいたのです。
「眼をつぶってるね。」カムパネルラは、指でそっと、鷺の三日月がたの白い瞑った眼にさわりました。頭の上の鎗のような白い毛もちゃんとついていました。
――宮沢賢治銀河鉄道の夜