サクラノ詩 dear My Friend

 緑色の縮小曼荼羅の紙って不死性の象徴なんだよ。カムパネルラは夢の中で実在していた人物なんだなあ。その仮構の実在を狂気ととるか、それとも幸福ととるかは人の世界の見方次第なんだな。必然の外側にしか認識は存在しない。必然を愛するなんてのは美に呪われた神くらいだ。銀河鉄道の夜の最後のほうに、真っ黒い孔が出てくるよな。あれはすべてを飲み込む虚、不可避の死を暗示するものだろう。ゴッホのまっくろい炎のような糸杉を意識して書いたのかもしれない。賢治は死後の世界をきらきらと輝くものにしたかったんだろうな。それは焼身願望であって、自殺願望だったわけじゃない。動物や植物と一体になる、それが自然なことだと生前から思っていたのだからな。賢治の心象スケッチはよく野外で行われた。というか、賢治にとって室内っていうのは窮屈で退屈な場所として捉えられていたみたいだな。農学校の先生とかやってた時に、閉塞的な人間関係に嫌気でもさしていたのかね。ずっと部屋に引きこもって詩を書いていたディキンソンとは正反対だな。でも、その背後にある思想や作品に表現されているものはよく似ている。賢治の心象はすべて外に映し出されている。農民芸術っていうのは要は大衆芸術とか印象派を意識したものだろう。風や雲、太陽や月、春と雪、そこに生きる人々、いろんなものに賢治は自分自身と他者の心を見た。その心象をそのまま記録したのが春と修羅だな。余談だけど、wateremelonの電気石っていうのは賢治が集めていた鉱石からとってる……というのは冗談。銀河鉄道の夜に出てくる黄玉のトパースかもしれないし、昔、稟が言っていた「俺が筆を持ったときには極彩色の光を放つ」っていうのが意識されていたかもしれない。まぁ、なんでもいいんだよ、俺があの詩を書いていた時、見たままのものを、そのまま素描しただけなんだからさ。それを人がどう受け取るか、その人の中で言葉がどのような意味を持つのか、それはその人次第だよ。心象スケッチを受け取るっていうのはそういうことなんだからさ。俺が見た心象風景をそのまま共有できるってわけじゃない。その心象は他者の心の中で、あるいは音読する声によって、その瞬間に命を与えられるんだからさ。ある程度まではみんなと共通するっていうのはそういうことな。だからあの詩に書かれていることは、読んだ人が思っている、あるいは感じているそのままの意味なんだよ。
 難しい哲学書なんかには言語がびっしりと書かれているもんだが、そいつに書かれている字面をただ追っているだけではそれは言語のままだな。そいつは死んでいると言ってもいいだろう。詩は声に出されて息を吹き返す。賢治の詩はそのように描かれている。なら言語はどうすれば言葉になるのか。言語というのは真理を求める心によって生かされる。水菜みたいに小難しい本を熱心に読んでいるならば、その言語は生きていると言えるだろう。真理を求める意志、冷たい光、懐疑の意志、論理の穴を見つけようと目をかっぴらいて活字を追っているとき、その言語は言葉となって生きている。まぁ、論敵をやっつけたいとか、頭良いことを言って尊敬されたいっ、とかでもいいんだけどさ。なんでもいいんだよ、その言語が音と心と交差していればさ。
 自殺のために描かれたとされるゴーギャンの遺作、あの作品が自身の人生についての批評であるなら、その芸術が私という作品を見ているという逆転した構図になる。アフォードするってやつ。作品はただ見られただけでは芸術とはならない。動物が作品を見ても、布地にぶちまけられた色の混合であったり、金ぴかの枠に収まった窓でしかない。永遠の相のもとに見られた作品だけが芸術となる。永遠の相のもとに世界を見るとは、意志と倫理の一致のもとに世界を見ることである。芸術として見られた世界は、それを見ている人の人生をも芸術とする。その循環する相互関係こそが、この世のすべてが美しいと言われるゆえんだ。芸術には神と無限が宿る。そいつが「お前の人生はいまだに未完のままである」と言っている。なぜだろうか。身体があるからだろうか。心が死から逃げようとしているからだろうか。心と身体が一致していないからだろうか。自己という殻に縛られているからだろうか。ジョバンニは天上の世界でみんなのさいわいのために、どこまでも行こうという決意をした。死後の生のその先には本当の世界が待っている。みんながいる世界だ。すべてがわたくしの中でうんぬんっていうのは賢治の汎神論的な考え方がよく表れているな。すべてを俯瞰する絶対者としての神など存在しない。仏教的な神はあらゆる他者やものの中に見てとられる。俺が生きていた頃にやってきたこと、それは俺が死んだ後にもどこかの誰か、どこかの風景に残っている。「創造主の仕事がただ一日だけのものなら、それはどのようなものか、神は決して休息されないだろう」というのは世界が常に美の発見に満ちているということを意味している。日々の中で他者の心は発見される。そしてその心の中に美が発見される。そこにあるもの、自分の身体、それを感じる心、幸福の心、死と生、現実と夢、それらが一体になるまでは人生は未完だ。ゴーギャンは絶望と死への意志によって器を満たし、そんで自殺したら自分という作品が完全になるとかぬかしていたけど、俺は幸福への意志によって世界を満たすよ。あいつはそれで完全になったのかもしんないけど、俺は仮象の春色一面の空のなかで、死と生がふわふわと包まれている状態が完全なんだと思うね。遺言にはとっておきのジョークを、死の瞬間には幸福の意志と倫理に満たされた心を、俺は世界に手向けるのさ。この緑いろの紙をもって。天上の世界へと、どこまでも、どこまでも、あのまっくろい孔の向こう側にだって行ってやるのさ。そこは死の世界じゃない。みんなの世界だ。おれがすべてのみんなになって、みんながすべてのおれになる。心ってなんだよ? ものってなんだよ? それはぜんぶここにある。おれのさいわいも、みんなのさいわいも、ここにある。



from All in your world,